縄文土器

 

(じょうもんどき)

【考古】

縄文時代に製作・使用された土器。名称は、明治初期にE.S.モースによって調査された東京都大森貝塚の発掘調査報告書『SHELL MOUNDS OF OMORI』に登場する「cord marked pottery」の日本語訳に由来する。昭和初期には弥生土器以前の先史時代の土器全体を指す名称となり、その後、その時代が縄文時代といわれるようになった。縄文土器は、稲武地区の馬ノ平遺跡などにみられるような縄目模様で飾られることが特徴のように思われるが、必ずしもすべての土器に縄目が施されているわけではない。高橋地区の曽根遺跡から出土した土器のように、粘土の貼り付けや太い沈線で装飾されているものも多い。縄文土器は、ドングリのアク抜きや魚介類の調理などのため、深鉢と呼ばれる煮炊き用の容器から出現したといわれている。青森県の大平山元Ⅰ遺跡では、縄文時代のはじめ頃の土器が出土しており、放射性炭素年代測定によって、今から1万6500年前に使用されたことが明らかとなっている。縄文土器は、世界史的にも最も古い土器の一群として知られており、狩猟採集社会の日本列島各地で製作・使用され始めた。市内では、松平地区の酒呑ジュリンナ遺跡から出土した微隆起線文土器が最も古く、今から約1万2000年前のものと考えられている。層位学的および型式学的な分析を経て導き出された縄文土器型式に分類される資料群は、時期と地域を示す指標として用いられる。1万年以上にも及ぶ長い期間の縄文時代は、大きく古い順に草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に分けられ、地域ごとにいくつもの土器型式が設定されている。このような型式設定は、縄文土器の編年研究といわれるもので、当時の集団や文化的影響などの研究のほか、発掘調査の際の遺構や堆積層の時期特定にも使用される。市内の遺跡では、前期の牛地町大麦田遺跡、中期の船塚遺跡やヒロノ遺跡、後期の吉田遺跡など、土器編年研究に寄与した遺跡が数多く知られている。縄文土器の形の違いは器種と呼ばれ、それぞれは機能・用途の違いを示すとされる。最も多い器種は、煮炊き用の深鉢である。浅鉢は盛り付け用ともされるが、ススが付着するなど火に掛けられたものもある。注口土器は酒類などが入れられた祭祀用の器で、今朝平遺跡などで多く出土している。下り山B遺跡の鍔付短頸壺(市指定文化財)や大砂遺跡の釣手土器など、特別な機能・用途の器種もある。縄文土器は、日本列島の土壌の中で腐朽することなく残存し、当時の製作と工芸のレベルを示すとともに、時期と文化の広がりを知る指標ともなっていて、縄文時代を代表する遺物であるといえる。写真は市内の各遺跡から出土した縄文土器。


→ 注口土器釣手土器