常楽寺本堂

 

(じょうらくじほんどう)

【建築】

野原町(下山地区)。寺は、曹洞宗、創立は開山の華厳大富が慶長12(1607)年に入寂しており、天正から慶長年間(1596~1615)頃の開創とみられる。第6世長安応天代には保久城主石川市之正が帰依して涅槃像、絵画を寄進している。嘉永7(1854)年に鐘楼、山門が火災に遭い、安政2(1855)年に庫裏、同6年に本堂を建立している。本堂は、桁行7間、梁間6間半、入母屋造、鉄板葺、南面建ち。間取りは、前面に広縁を通し、前後2列、横3室の方丈形式とし、広縁の中央に土間(露地)を設けており、近世曹洞宗本堂の前面土間6室型の平面形式を基本とする。堂正面は、中央柱間に敷鴨居、虹梁を通して入口とし、その両脇柱間では中敷鴨居、内法長押を通して窓とし、内法上を小壁とし、柱頂に出三ツ斗を載せている。堂内は、土間・広縁では畳敷詰めとするが、入口部分に土間を残している。内部の柱は総角柱とし、室境に敷鴨居、内法長押を通し、引違い戸を入れて間仕切り、各室に棹縁天井を張る。大間は間口3間半、奥行2間半の17畳とし、正面中央柱間では虹梁を渡して開放し、大間両脇では吊束と竹の節欄間を入れ、小壁を下している。上・下の間は12畳半、上奥・下奥の間は10畳とし、上奥の間では西に床の間を設け、下奥の間では仏壇を造っている。内陣は、前面に2本の丸柱を立て、虹梁を3スパン渡し、平三斗を載せて開放し、中央後方に来迎柱を立て、虹梁を3スパン渡し、三ツ斗を載せ、前に須弥檀を出し、背後の仏龕に本尊を祀っている。内陣背面では、中央に後門を開け、その両脇に脇仏壇を造り、後方に開山堂を設ける。この本堂は、近世曹洞宗本堂の特徴である前面土間式の中でも、江戸時代中期以降に土間が消失する中で、その過渡期の建築物として重要である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻165ページ