(しょうりんじほんどう・たいしどう)
【建築】
矢並町(高橋地区)。旧豊田市内では唯一の真宗高田派の寺院である。明応2(1493)年に長野善光寺の末裔正光が、松山と呼ぶ山上の地に天台宗の草庵を結んだのが始まりという。その後、妙源寺の蓮念の感化を受け、真宗高田派に転宗した。本堂の建立年代は、棟札によれば「文化五年十一月二十六日仏客造立」である。大工棟梁は榎本太蔵寛重、森惣右衛門政雪であった。太子堂は、文化3(1806)年の建立と伝えられている。本堂(写真)は、入母屋造、桟瓦葺、平入、向拝1間(実長2間)付で南面する。内陣は来迎柱と須弥壇による後門形式を採用する。柱は来迎柱と脇仏壇前柱の4本を円柱とするほかは面取角柱を用いる。堂正面には半間幅の濡縁を付け、正面中央に2間幅の木階3級を設ける。外陣外廻りは柱間に後補の引違い腰高ガラス障子を入れる。外陣内部は間口4間半、奥行2間半で矢来内がなく、正面から内陣前の両隅柱へ大虹梁を渡し、柱間を開放する。外陣西側の間口2間の部屋は、当初はなく、正面から続く半間幅の濡縁が取付いていた。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。内陣および余間正面は、柱上に出三斗を載せ、内陣前に大虹梁を渡し、虹梁上に人物や動物などの高肉彫欄間、余間前に筬欄間を嵌め、柱間には内陣正面に千本障子を入れる。内陣・余間境は柱上に出三斗を載せ、柱間を開放するが、当初は建具が入れられていた。脇仏壇上部には虹梁を渡し、中備に蟇股を載せる。余間は背面仏壇の上部に虹梁(東余間は差鴨居)を渡す。西余間は改造が多いが、当初は東余間と同じ間口1間半であった。天井は外陣を棹縁天井、余間天井を格天井、内陣を折上格天井とする。また、東余間の東側面では、3室通しの座敷が設けられ、最奥間の背面には床の間と棚を構える書院座敷、最前の6畳間は正面玄関の式台となる。このように書院座敷を向かって右側面に接続する形式も、高田派の中型本堂によく使われる本堂形式である。また、内陣正面の大虹梁や千本障子、余間の出内陣も高田派特有の手法である。一方、太子堂は、方1間(実長1間半)、宝形造、露盤・宝珠付、桟瓦葺、一軒疎垂木の小堂で、周囲に半間幅の濡縁を廻らす。内部では背面に奥行半間の仏壇を構え、壇上に厨子を祀る。高田派寺院では、このような太子堂が多くみられる。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻118ページ