新規学卒者の流入

 

(しんきがくそつしゃのりゅうにゅう)

【現代】

高度経済成長期の豊田市は自動車および自動車関連部品の増産に伴う人手不足により、全国から大量の青少年を労働者として迎え入れた。市は一般の広報とは別に『広報とよた青少年版』を創刊し(昭和43年7月~49年3月)、毎月勤労青年に向けた記事を掲載した。昭和44(1969)年3月号には新規学卒者の豊田市内企業への就職状況が掲載されている。地区別にみると九州が全体のほぼ40%を占めていた。なかでも福岡県が目立ち、全体の15%(510人)も占めている。この資料には男女別比率は書かれていないが、圧倒的多数が男性であった。なおこの記事に愛知県の記録はないが、翌45年には愛知県内からも中卒者184人、高卒者377人の合計561人が豊田市内の企業に就職している。豊田市ではこうした若い労働者のために独身寮の建設に力を入れた。昭和42年3月3日の『中日新聞』には「1万2千人収容のマンモス独身寮団地」という記事が掲載されている。トヨタ自動車本社の周辺には、昭和33年の大卒社員寮を皮切りに、女子寮も含めて18の寮(700~1000人収容)が建設されたのだった。平均年齢は21.9歳ときわめて若かった。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻195ページ

→ 憩いの家混住化