(しんこうじほんどう)
【建築】
豊松町(松平地区)。当寺は、初め天台宗で教信寺と号し、額田郡井田郷(岡崎市)にあって、開基は恵心の弟子教信と伝わっている。貞永年中(1232~33)21代頓祐は親鸞の弟子になり、浄土真宗に改宗した。その後、文明元(1469)年28世頓慶の時、蓮如の教命によって現在地の太田に移った。文明13(1481)年松平3代信光の子西心は、当寺の8代を継いで、父信光の菩提のために信光寺と改称した。本堂の建立年代は、平成22年の屋根修理、および耐震補強工事の時に発見された墨書によれば、寛政5(1793)年で棟梁は額田郡岡崎両町の荒川貞右衛門である。また仏壇前台の裏面墨書に文久2(1862)年の年号があり、この時内陣に修理が施された可能性がある。本堂は、桁行実長10間、梁間実長9間、寄棟造、桟瓦葺、平入、向拝1間(実長3間)付で東面する。間取りは、前半の間口7間、奥行3間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方に1間幅の広縁と半間幅の落縁を配し、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半は中央に間口3間、奥行3間半の内陣、その両脇に間口2間、奥行3間の余間を配する。その外側には間口1間半の飛檐の間を設け、堂背面に1間幅の後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式を採用する。柱は来迎柱を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に渡され、矢来内正面の虹梁上の中央に蟇股2具、その両脇に蟇股1具を載せ、余間仏壇上に詰組(出三斗)と蟇股を配す。外陣外廻りは柱間には正面にガラス障子(両脇間は旧蔀戸)、側面にガラス障子(旧板戸と障子)を引違いに入れる。内陣および余間正面は柱上に出三斗を載せ、出三ッ斗を詰組に置き、内法上に龍や波や鳳凰や菊の高肉彫欄間を嵌め、柱間には双折巻障子を吊る。内陣および余間内部にも出三斗と蟇股を配し、内陣側面の柱間は旧建具で仕切られていた。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内を格天井、内陣と余間を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この堂は、江戸時代後期の大型本堂であるが、復原すると内陣では脇仏壇が半間手前に移されて、余間仏壇と前端を揃えた通し仏壇の形式(来迎柱前に凸字型に仏壇が突出していた可能性もある)となる。当地方ではこの前後から須弥壇が独立した後門形式に改造され、現在の完成された内陣形式に急速に発展していく。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻114ページ