信参鉄道

 

(しんさんてつどう)

【近代】

明治40(1907)年6月から大正5(1916)年8月にかけて、碧海郡新川町に本社を置いて存在した鉄道会社。初代社長は副島道正であり、古橋義真らが監査役に就任していた。路線の出願は明治33年に内藤政共らによって行われ、資本金130万円で、新川-挙母-足助の49.1kmを軌間1067mmで結ぶ計画であった。足助以東についても、中央東線の辰野から足助への官鉄路線を政府に働きかけることで、南信州方面への連絡が構想された。明治34年に仮免許、同39年に本免許を取得し、会社設立後の明治40年11月に着工される。明治40年12月には足助-辰野157.5km、挙母-名古屋35.1kmの延伸も出願。延伸には外資導入も構想されたようである。だが、外資導入は実現せず、辰野等への延伸も明治43年に鉄道院から却下され、南信州連絡計画は挫折した。株式の払い込みも不調となり、明治44年に軽便鉄道に転換することで乗り切ろうとしたものの、大正3年に矢作-挙母-足助の免許が失効。翌4年に破産宣告を受け、大正5年に会社解散。新川-矢作も免許失効し、すべての路線が建設されずに終わった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻271ページ

→ 内藤政共古橋義真