壬申地券

 

(じんしんちけん)

【近代】

明治政府が成立しても、石高制と村請制による近世の貢租納入の体制は変わりなく続いていた。村の石高に応じて貢租を賦課し、村が責任を持って領主に納入する仕組みは、廃藩置県後から次第に変化していった。明治4(1871)年9月政府は田畑勝手作を許可し、翌年2月には土地永代売買の禁令を解き、土地売買が公認された。またこれより以前、明治4年1月、東京府は府内の武家地・町地に対して地券を交付し、これに続いて各府県でも市街地に地券を交付し、市街地の土地売買を公認した。こうして政府の土地政策は変わり始め、明治5年7月になって、すべての土地に地券を交付することを布告した。この布告によって発行された地券は、明治5年の干支が「壬申」であったことから、壬申地券と呼ばれた。額田県では10月、土地の所有権を強固にし、地所の整理を行うために地券を交付することになった旨を布達し、地番、面積(反別)、田畑の区別、石高、持ち主、地価などを調査するように村に命じた。地価は土地の売買値段を記載することになっていた。地券発行のための土地調査は、11月額田県が愛知県に合併されたという事情もあって、円滑には進んだわけではなかった。加茂郡では明治6年6月には地券(「地券之証」)が交付され、所有者、住所・地番、田畑反別、地代金(地価)が記載された。しかし貢租の納入は5年8月にすべて金納に変更されたが、村請制による貢租の賦課・徴収の仕組みに変化はなかった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻45ページ

→ 地租改正