(しんでんけんち)
【近世】
新たに拓いた田畑は領主の検地を受けなければならない。切添と呼ばれる、既存の田畑の周辺や草地などの小規模な開発の場合、そのたびに検地を受けるため、毎年のように検地が実施されていることもある。時には1筆のみのものもあるが、市域ではいずれも本田畑検地と同じく田畑の別と面積、名請人が記載され、分米は記載されていない。多くの場合、数年間は年貢が免除され、その後も年貢率は低く、新田畑によって状況が異なるため、年貢免状では本田畑とは別に新田畑ごとに記載される。帳面は検地ごとに独立した冊子として仕立てられるのが通例であるが、鴛鴨村などで1冊の帳面に年々書き継がれたものが残されている。確認できているのは岡崎領7か村で、明暦2(1656)年、寛文6(1666)年、同8年に仕立てた新田畑検地帳に多い場合33回分が記載されている。紛失を防ぐ、新田畑の全体がわかりやすいなどの利点はあるものの、上郷地区以外にはこれまでのところ書き継いだ例はみられず、上郷地区の特色と考えられる。宝暦12(1762)年岡崎藩主が水野家から松平家に代わるが、それ以降の新田畑検地は独立した冊子が仕立てられている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻18ページ、7巻841ページ、8巻793ページ、9巻810ページ
→ 慶長検地