神明遺跡

 

(しんめいいせき)

【考古】

上郷地区鴛鴨町の南へと延びた標高約29mの中位段丘面(碧海面)上に展開する集落遺跡。洪水の及ばない安定した立地で、弥生時代~奈良時代を中心として、旧石器時代~中世までの長期間にわたって断続的に人の居住が続いた。遺跡内には三味線塚古墳が築造されている。昭和41(1966)年~平成20(2008)年までの間に12次に及ぶ発掘調査が行われている。旧石器時代の遺物としては細石刃が採集され、縄文時代の遺構としては中期後半の竪穴建物跡1基と、晩期後半の土器棺墓1基、中期~晩期の土壙2基が検出されている。調査区の南西部に展開している弥生時代の集落は、川原遺跡からの人の移住によって始まった可能性がある。中期末の竪穴建物跡が確認され、三味線塚古墳の墳丘下からも掘立柱建物遺構が検出されている。後期の土器の中にはシカと建物を描いた線刻絵画土器(写真)があり、注目される。終末期には建物が増加し、後期の「広場」を埋めるほど多く建てられた。古墳時代前期になると建物はいったん減少するが、前期後半に再び増加し、4世紀後葉~5世紀前葉には集落域が北に広がった。古墳時代の遺物は多様かつ豊富で、猿投窯の須恵器はその初期から供給され、大阪府陶邑窯産須恵器や韓式系土器も伝わってきている。鉄製品は集落跡としては多くみられ、古墳時代前期の工具、中期の農工具や鉄鏃が出土している。鉄素材である鉄鋌が出土したことから、集落内で製品への加工が行われていたと推測される。また多種類の石製祭祀具が竪穴から出土し、その他にも、ガラス製丸玉や6世紀前葉の製塩土器がみられる。さらにカマド類似遺構が5世紀前葉から現れ、後葉には竪穴建物のほぼすべてにカマドが作られた。こうした多量の物資や渡来系要素にもかかわらず、豪族居館のような建物跡は発見されていない。本遺跡は、矢作川下流域の集落と豊田盆地の集落とを結ぶ流通の結節点に位置していたことにより繁栄した集落であったと考えられる。5世紀中葉には台地の東縁に三味線塚古墳が築造されている。古墳の周溝と集落内の廃棄土坑から共通する祭祀遺物が出土しているため、本集落遺跡と密着した小規模首長の古墳と推測される。6世紀になると建物数が減少し、7世紀前半には集落が移動したとみられる。7世紀後半~8世紀には、竪穴建物と掘立柱建物からなる一般的な景観の集落となる。遺跡北西部の一角から古代瓦が多く出土するが、それらは隣接する台地崖に築造された神明瓦窯の製品と推定されている。調査区内では時期の異なる柱列が検出されているので、柵で方形に区画された瓦葺建物からなる小規模寺院が存在した可能性がある。遺跡は平安時代にいったん途絶える。しかし、戦国期の片庇付掘立柱建物跡から鞴羽口ふいごのはぐちと鉄滓が出土しており、西に隣接する鴛鴨城に関連する生産遺跡と推測されている。本遺跡では居住の空白期が認められるものの、遺跡の動向は沖積低地にある川原遺跡や埋没段丘上に立地する水入遺跡、小谷を隔てて西側に隣接する矢迫遺跡などと相互に補完的な関係にあったとみられている。なお、本遺跡の出土土器は矢作川流域の古墳時代中期~後期の土器編年の基準資料として用いられていて、学術的に重要な遺跡として評価されている。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻221・224・240・252・300・363・401・425ページ、19巻256ページ

→ カマド川原遺跡韓式系土器線刻絵画土器水入遺跡矢迫遺跡