(しんめいじんじゃほんでん)
【建築】
永太郎町(小原地区)。社蔵の慶長11(1606)年の棟札によれば、宮口本願・尾形三左衛門源秀隆と松名本願・杉田硫右衛門菅原安為の両氏によって白山権現・蘆和大明神・伊勢神宮の3神を一宇に奉祀したとある。現本殿は棟札より、明和6(1769)年の建立であることが知られる。本殿は、桁行3間、梁間1間の身舎の正面に三間庇を付した三間社流造の社殿で、屋根は板葺の折屋根で垂木も省略されるが、もとは杮葺か檜皮葺であったと考えられる。破風の拝みには現在蕪懸魚を吊る。身舎柱は面取角柱で、四周に縁長押を廻らし、正面のみに縁を設けた見世棚造の形式をとる。縁の正面には1間幅の木階6級を設け、両脇に浜床を造る。身舎の正面柱間は、間口1間として開放し、この奥に奥行1尺強の入込み部分を設ける。内陣正面の柱間3間には、両開き板唐戸を吊る。側背面の柱間は横板壁とする。妻飾は、虹梁上に角束を立てる。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を渡し、両端に木鼻を出す。柱上では斗栱を用いず、両端の身舎柱との間に海老虹梁を渡す。この本殿は、小規模な三間社流造・見世棚造で、身舎に奥行の浅い入込みを設け、身舎正面の柱間を1間とする点に特徴があり、屋根は改造されているが、虹梁の絵様は比較的整っており古式である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻227ページ