(しんめいじんじゃほんでん)
【建築】
杉本町(旭地区)。現本殿の建立年代に関しては、文政元(1818)年の再建棟札がある。大工棟梁は大坪邑・安藤長右衛門利貞で、他に大工として尾州知多郡横松村・山本林蔵の氏名がある。本殿は棟持柱を有する神明造であるが、社殿の構成は桁行1間、梁間2間の切妻造、平入で、後半部分を入込みを設けた内陣、前半部分を流造の庇のように扱う形式である。屋根は鉄板葺(もとは檜皮葺)で、障泥板・甍覆・千木・堅魚木(いずれも鉄板覆)を置き、破風板には鞭掛を付ける。軒は一軒繁垂木。身舎の柱と棟持柱は円柱とし、庇の柱は唐戸面取角柱として、棟持柱は礎石上に内転びに立ち、身舎と庇の柱は土台上に立つ。身舎の柱間には四周に縁長押を廻らし、側面と背面の柱間にはさらに縁長押と内法長押を通し、正面で枕捌きに納めて内方へも廻らせる。柱上では斗栱を用いず、庇の柱間まで通しの妻梁を置き、前後両端の柱筋で、梁上に軒桁を相欠きにして載せる。身舎正面の柱間は開放し、側背面は横板壁とする。また、前半の庇部分は吹放しとする。身舎正面の柱筋より2尺強ほど内方に内陣の戸口を造る。戸口には方立・小脇羽目を組んで、両開き板唐戸を吊る。身舎の正側三方には刎高欄付の切目縁を廻らし、縁側面の後端に脇障子を設け、正面に木階5級を付す。妻飾は、妻梁上の中央に円束を立て扠首を組む。円束および棟持柱が立つ棟筋は、身舎正面の柱筋とも内陣正面の柱筋とも一致しておらず、身舎の正面は棟筋より4寸弱前方に納まる。なお、脇障子の板壁に彫刻が付されている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻254ページ