(ずいおういんほんどう)
【建築】
寺部町(高橋地区)。当寺は、極楽山隨應院不遠寺と称する。文明11(1479)年岡崎市の大樹寺の開山勢誉愚底の弟子法誉悦叟が、力石村に極楽山浄土院不遠寺を創立したという。長享2(1488)年寺部城主鈴木重時が法誉を招じて、勧学院文護寺跡とする現地に寺号を移し、寺を創建したとされる。その際、法誉は法兄の専誉儀運を開山とし、自らは力石に戻って寺号を高昌院と改めて開山となったが、専誉が示寂したため寺部の不遠寺に戻って第2世となった。第8世正誉の代、鈴木氏に代わり寺部領主となった渡辺治綱は、承応元(1652)年亡母の隨應院殿の33回忌の法要を営み、寺号を極楽山隨應院不遠寺と改めた。現本堂(写真)は、享保年間(1716~36)に建立されたといい、中門は文政2(1819)年に建立され、このほか庫裏、観音堂、経蔵、十王堂、鐘楼門、総門等が残されている。本堂は、桁行7間(実長9間)、梁間6間(実長7間強)、寄棟造、桟瓦葺、一間向拝付、南面建ちとする。堂内は、広縁では畳敷詰として棹縁天井としており、外陣前面では柱間五間とし、中央間を背違いに高く敷居、差鴨居を通し、両脇各二間には敷居、内法長押を通して引違い戸を入れ、内法上小壁とする。現在、外陣は両脇後方の脇の間を連結させて凹字型の67畳の連続する空間としているが、当初外陣は間口五間、奥行二間に四十五畳の横長の広い空間を造り、両側面では敷鴨居、内法長押を通し、引違い戸を入れ、内法上を小壁とし、全面に棹縁天井を張った。内陣は、前面三間と両側面一間の柱間では床を高めるために蹴込板、中敷居、鴨居、内法長押を通し、内法上に正面で彫刻欄間、側面で板欄間を入れ、柱上に頭貫(端木鼻)、台輪(端花頭形)を通し、出組斗栱を置き、中備には中央蟇股、その他に間斗束を入れ、柱には黒漆塗り、内法上部に極彩色を施している。内陣前面より二間半後方に来迎柱を立て、前面に禅宗様須弥檀を出し、柱上に頭貫(端木鼻)・台輪(端花頭)を通し、出組斗栱をおき、折上格天井を張っている。来迎柱の奥では中央間を後門とし、その両脇に脇仏壇を設けている。また、脇の間は、現在東脇の間では内陣前面より二間後退させ、内陣寄りに間口三間、奥行一間半に中敷居、蹴込板を入れた上段を造り、後方に位牌壇を造り、位牌壇を内陣より一間、その西二間に分け、前面には虹梁を渡し、内陣の空間と連続させている。この本堂は、寺部領主2代渡辺重綱の夫人隨應院殿を祀り、近世浄土宗本堂として本格的な意匠を保つ貴重な遺構である。中門は、切妻造、桟瓦葺、正背面唐破風付の大型の四脚門である。この門は、近世後期の四脚門として、新たな技法を組み込んだ清新な門である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻22ページ