(すいしゃ)
【近世】
市域の矢作川支流には水車小屋(車屋)が点在し、米・麦の精穀や製粉、絞油のための綿実の粉砕などに使用されていた。水車小屋には木製の車輪のほかに、車輪に連結して稼働させる搗臼や挽臼を備える必要があり、さらに動力である水を河川から取水する井堰や井道用水などの土木施設を備える必要があった。寛政7(1795)年、四郷村(猿投地区)の浦野磯右衛門が提出した願書の水車小屋は広さ7.575m×4.848m、水車車輪の直径は3.636mで、8つの臼を備えることになっている。近世後期に足助の巴川沿い、飯盛山香積寺の寺下にあった水車小屋は、石垣で囲まれた井道用水によって巴川から取水し、途中には水量を調整する水門を設け、2つの水車を稼働させる構造となっている。また、水車小屋の横には作業をする者が寝泊まりをして、水車の稼働と盗難防止を監視する見張小屋が必要であり、そのほか大篩、唐箕、千石通し、杵などの道具類を必要とした。このような水車小屋の設営のみならず、その維持のためにも多額の費用を要した。水車は水力を動力とするため、農業経営などで水利を共有する場合は、相手方の当事者を含めた村と利害を調整し、水車稼ぎに対する合意を得る必要があった。領主側も当事者間の合意を前提に水車稼ぎの許認可を判断した。多くの場合、水車の稼働時期を秋の彼岸から春の彼岸までの農閑期とする取り決めが結ばれているが、水利をめぐる争論もしばしば起きている。弘化4(1847)年の日照りに伴う水不足により、猿投地区を流れる籠川の水車の持ち主作兵衛と四郷村との間で起きた争論はその一例である。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻322ページ