(すぎうらただし)
【現代】
プロ野球選手。昭和10(1935)年9月17日に現在の豊田市若宮町で出生。挙母町第一国民学校(後、挙母小学校)4年生の時に終戦を迎え、翌年から野球に熱中した。挙母高校(後、豊田西高校)では1年生の秋からエース、3年生になると主将を務めたが、夏の甲子園予選は2回戦で敗退。進学した立教大学では、長嶋茂雄(後、巨人)、本屋敷錦吾(後、阪急)と共に立教三羽ガラスと呼ばれ、4年生の時には春と夏のリーグ戦を連覇した。昭和33年、プロ野球の南海(後、ソフトバンク)ホークスへ入団すると、27勝を挙げて最優秀新人賞。翌34年にはシーズンの半数以上にあたる69試合に登板して38勝4敗、防御率1.40という驚異的な成績でチームをリーグ優勝に導いた。巨人と対決した日本シリーズでは、4試合37イニングのうち32イニングを一人で投げ抜き、空前絶後の4連投4連勝。昭和36年に右腕の動脈閉塞を発症し、昭和45年に引退した。通算187勝106敗。現役引退後は、南海監督やダイエーホークスの初代監督などを務めた。平成7(1995)年に野球殿堂入り。翌年には初の豊田市栄誉賞、同9年には豊田市郷土資料館で特別展「キミは杉浦を見たか」が開催された。杉浦が放った強烈な輝きは、野球史の記憶、豊田市の誇りとして、永遠に語り継がれている。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻148ページ