杉田久女  1890~1946 

 

(すぎたひさじょ)

【近代】

大正末期から昭和初期にかけて活躍し女性俳句の草分けとなった俳人。本名は久。鹿児島県鹿児島市生まれ。官吏であった父・赤堀廉蔵の転勤に伴い、12歳まで沖縄県、台湾で過ごす。東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業後、明治42(1909)年に西加茂郡小原村出身の杉田宇内と結婚。宇内の福岡県立小倉中学校奉職のため、小倉に移住する。明治44年、当時の慣習にしたがって、宇内の郷里である小原村にて長女昌子を出産。大正5(1916)年に次女光子を出産後、兄・赤堀月蟾より俳句の手ほどきを受ける。翌年には高浜虚子主宰の雑誌『ホトトギス』に句が掲載されるなど、頭角を現していった。家庭不和や自身の病気などの問題を抱えながらも、昭和7(1932)年3月には主宰誌『花衣』を創刊(5号をもって廃刊)。同年には『ホトトギス』の同人にも推挙され、その作風は「清艶高華」と賞された。ところが昭和11年『ホトトギス』に同人除名の社告が一方的に掲載され、虚子を畏怖し傾倒してきた久女は衝撃を受ける。昭和21年、腎臓病悪化のため太宰府にて死去、小原村松名にて本葬が行われた。杉田家の屋敷跡には昌子により建立された句碑が存在している。