(すずきいちべえ)
【近世】
九久平村(松平地区)に陣屋をおいて500石の知行所を支配した旗本鈴木家の通り名。初代は康政で、高天神城攻めの軍功で家康から「康」の字を拝領したという。家康の関東移封に従い2代政重も関東に赴いたが、関ヶ原の戦い後再び三河に知行を得て九久平村に陣屋を設けた。慶長9(1604)年に政重が死去したとき嫡男政次は2歳であったが、菅沼作右衛門が後見役を勤めることで家督を継ぐことを許された。政次は2代将軍秀忠の小姓を勤めたあと大御番士となり江戸表二番町に屋敷を拝領した。一時期知行所を下総に移されて、そのときは九久平役所から離れていたと考えられるが、再び三河に戻され、それ以降同役所で支配した。弓術の腕を誉められ13代将軍家慶から時服を拝領した政備は御茶壷差副御用にも従事した。彼が当主のときに発生した加茂一揆に際しては、陣屋役人と連絡を取って事が大きくならないよう対応したが、情勢分析に甘さをみせた。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻451ページ
→ 九久平役所