鈴木氏

 

(すずきし)

【古代・中世】

15、16世紀に賀茂郡に勢力をもった武士。鈴木氏に関する系譜や『寛政重修諸家譜』には、鎌倉初期に紀伊国熊野から三河国に鈴木重善(平内太夫、善阿弥)が入ったと伝えられるが、その活動は同時代史料で確かめられていない。あるいは、14世紀半ばに、中条氏被官磯谷氏のもとで活動していた「矢並郷平内大夫入道善阿」を指す可能性もある。しかし、この人物が鈴木氏を名乗ったことを示す史料もみられないので、あるいはそのもとで活動していた鈴木一族がいたかなどと推測されている。系図類では、矢並、市木、寺部、酒呑、古瀬間、九久平、大島、則定、足助、大草などの各地に繁栄したことを伝える。いずれが宗家、庶家なのかは定かでないが、矢並を本拠として各地に勢力を伸ばし、分立したとみられる。15世紀以降、松平氏との関わりを深め、松平親忠室の皎月珠光尼は、矢並鈴木重勝の娘であるという。古瀬間龍田院の縁起には、古瀬間城主松平家房と鈴木左京助・右京進らが希声英音を招請し、永正12(1515)年に龍田院が開かれたとある。16世紀には寺部、足助、小原大草の鈴木一族が有力となった。大給松平乗勝に嫁いだ松平清康の養女は、乗勝没後に足助鈴木重直に再嫁し、信重を生んだと伝える。永禄7(1564)年、松平(徳川)家康は鈴木氏の足助城(真弓山城)を攻め、信重は屈服し、他の鈴木一族もこの頃には家康に従うようになった。『言継卿記』元亀2(1571)年4月10日条に、将軍足利義昭の「御足軽」衆であった鈴木某の記載がある。その人物は足助の鈴木信重のことを指し、「松平和泉守弟」つまり大給の松平親乗と異父兄弟の関係にあったことが知られる。なお、足助鈴木氏は天正18(1590)年頃、関東での知行安堵をめぐる不服から徳川家康のもとを去り、浪人となったが、大島・則定・酒呑などの鈴木一族は引き続き、家康に仕え、江戸時代に旗本として存続した。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻407・492ページ