(すみやき)
【考古】
市域の山間部にはかつて数多くの炭焼窯(炭窯)が存した。愛知県農林水産統計年報によれば昭和36(1961)年には現市域における稼働窯数は489か所を数え、その後昭和47年には81か所と大幅に減少したものの、平成14(2002)年の東海農政局豊田統計情報出張所の調査によれば、94か所と微増していることが知られる。下山地区の下山田代町・田折町を中心とする山間部を広範囲に発掘した豊田・岡崎地区研究開発施設用地造成事業に伴う埋蔵文化財調査では、37遺跡で309基の炭焼窯跡が検出されている。これらは、煙道、側壁と組み合わせた天井部をもち、複数回繰返して使用されたとみられるⅠ類(41基)と、明確な煙道を設けない土坑状の簡易な構造のⅡ類(268基)の2類に大別されている。その稼働年代については、炭焼窯に伴う出土遺物は僅少で、出土遺物から時期を特定することができないものがほとんどである。僅少な遺物もその多くが近・現代の瓦・土管・陶磁器・トタンといったもので、数は少ないが近世陶器のみが出土した窯は2基を数えるのみである。また16基の炭焼窯について、出土炭化材の放射性炭素年代測定(AMS測定)が行われ、日面遺跡A区026SY出土の炭化材が「1181−1263 cal AD」と、鎌倉時代の年代を示したほかは近世~近・現代という幅広い年代を示した。こうしたことから近世以前に遡る可能性が一部に指摘されるものの、そのほとんどは近世~近・現代の炭焼窯とみられている。下山地区以外では、猿投地区南山第1号炭焼窯(時期不明・上記Ⅱ類相当)の調査例があるのみで、こうした下山地区の事例が、市域全般の炭焼窯の動向を反映するものか否かは今後の課題である。
『新修豊田市史』関係箇所:20巻430ページ
【近代】
近代の市域における製炭事業は、東加茂郡で、明治15(1882)年以降、特に発展した。東加茂郡の足助炭は、石窯による白炭(堅炭)生産が中心で、養蚕業の発展や重要里道の整備を受けて、生産量を増加させる。明治42年には、東加茂郡の製炭戸数は同郡総戸数の2割以上にまでなった。この間、粗製乱造に対応するため、明治18年に東加茂郡炭業組合が組織される。当初は十分な取り締まりはできなかったが、明治39年に検査体制を拡充すると効果を上げるようになった。両大戦間期には白炭から黒炭への転換も進んだ。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻179・315・597ページ
【民俗】〈諸職〉
昭和30年代頃まで、市域山間部では炭焼が盛んで、白炭と黒炭が生産された。白炭はクヌギやコナラなどのカタギ(堅木)を原木とし、非常に堅いことから堅炭ともいった。窯の中で二昼夜ほど燃やし、原木が真っ赤になって黒い煙が薄くなったところで、エブリという道具で窯から原木を掻き出し、スバイ(灰を混ぜた湿気のある砂)をかけて急冷させて作った。表面は白く、細かい炭となり、火はつきにくいが一度点火すれば火持ちがよく、鰻屋などでの調理用に用いられた。白炭の窯は小さく、1回で5、6俵から10俵ほどの生産量であった。一方、黒炭は山の木のほとんどが原木になり、3日ほどかけて焼成した後、火を消して空気を入れずに蒸し焼きにし、窯の中を数日かけて冷ましてから取り出した。白炭より軟らかく、火がつきやすいので一般家庭用に使われた。黒炭の窯は大きく、1回で30~50俵焼けた。岐阜県美濃山間部で改良された「美濃窯」は、1回で100俵の生産量を誇ったという。昭和20年代後半は黒炭の需要が増し、炭焼窯の築窯講習会が市域山間部でも盛んに行われた。昭和30年代になると「加茂式」という炭焼窯が普及した。窯を築く場所には水はけの良い山の斜面が選ばれ、斜面を削って楕円状に掘り下げ、原木を敷き詰めるための四畳半ぐらいの平坦地を造り、壁面に沿って少し間を空けて木の杭を打ち込み、その間に赤土を詰めていった。天井は木の枝をアーチ状に組んでいき、その上に赤土を盛って叩き締めた。天井はその後、鉄板に替わった。窯の奥には煙道(ウド)が造られ、土管を積んだ煙突が置かれた。焚き口の奥には赤土で造った壁があり、炎は壁にぶつかって天井に上がり、窯の中に等しく行き渡っていく仕組みになっていた。出荷の際はカヤ(萱)とワラ縄で編んだ俵(炭俵)に詰め、1俵で3貫(約11.3kg)から4貫(約15kg)の重さがあった。〈諸職〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻52ページ