(せいえんどき)
【考古】
海岸部で塩分濃度を高めた鹹水を煮詰めて塩づくりを行うために作られた土器。県内最古となる弥生時代終末期の製塩土器は、高浜市王江遺跡で確認され、5世紀後半以降には知多半島・渥美半島・三河湾島嶼部において土器製塩が継続的に行われた。製塩土器で作られた塩は、通常は塩俵などに入れ替えて運ばれたと考えられるが、海岸部から遠く離れた内陸部の集落遺跡からも製塩土器が出土するため、製塩土器の中で固化した固形塩(堅塩)が土器ごと搬入されることもあったことがわかる。矢作川中流域の集落遺跡では、塩生産が急激に拡大した7世紀後半~8・9世紀にかけて、多くの遺跡から製塩土器が出土するようになる。市内で発見された製塩土器は、6世紀前葉の神明遺跡(鴛鴨町)の出土例を最古とし、平安時代に至るまでに計24遺跡から出土している。最も北に位置する旭地区の大砂遺跡は、矢作古川の河口部から直線距離にして60km近くもさかのぼった地点にある。大半の遺跡では1点もしくは数点の出土に留まるが、挙母地区梅坪遺跡の229点、高橋地区堂外戸遺跡の65点、上郷地区水入遺跡の59点、神明遺跡の37点のように、多数の製塩土器が出土している事例もある。製塩土器で運ばれた塩は煎熬によって作られた通常の粗塩ではなく、それらを再加熱して焼き固めた固形塩、すなわち特別に作られた堅塩であったと考えられる。7世紀後半以降の堅塩については、都の文化に憧れた地方の上位階層が都風の食事を行ったり、鮎の加工、祭祀的な場面で使用されていたのではないかと想定されている。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻4022ページ、19巻256ページ、20巻52・294・610・668ページ
→ 焼塩壺