製茶

 

(せいちゃ)

【近代】

明治前期の市域で重視された農産業の一つ。特に積極的な展開がみられたのが、古橋源六郎家によって先導された北設楽郡である。当主の古橋暉皃が製茶に注目したのは伊那県出仕中の明治2(1869)年であり、明治4年に私費を投じて茶実8石を購入し、村民に分配した。さらに明治9・11年に、小木曽利左衛門に豊橋や沼津で製茶法などを学ばせた。明治13年には、北設楽郡53か村中39か村で茶が栽培されるに至る。だが、明治14~15年以降、古橋家の開発方針における製茶の地位は低下していく。この主要因は付加価値の高い製品を販売できなかったことにあり、明治33年には古橋家自身が製茶業から撤退した。ただし、現在でも豊田市では製茶業が展開されており、豊田市茶業組合(昭和21〈1946〉年設立)、下山茶業組合(同46年)が活動している。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻126ページ

→ 古橋暉皃

【民俗】〈環境〉

市域の茶の生産地は碧海台地上に多く、温暖でやや湿潤な気候が茶の栽培に適していたといわれている。茶の生産が今も盛んに行われているのは、台地上の猿投地区御船、上郷地区渡刈、高岡地区竹・吉原・花園、高原の下山地区和合の辺りである。市域の製茶には煎茶と碾茶てんちゃと一定期間日光を遮って育てる煎茶のかぶせ茶がある。煎茶は蒸して手揉みして作る緑茶である。碾茶は抹茶に碾く前の茶葉のことである。市域で栽培されている茶の品種は、煎茶が主に「やぶきた」「おくみどり」、碾茶が主に「あさひ」「さみどり」である。茶摘み時期は「八十八夜」を目安にするものの、実際には5月から6月に行われる。この時期を過ぎると葉が硬化し、うまみが落ちるので、茶摘みには近在からも人を頼んだ。茶摘みから煎茶、碾茶にするまでの主要な作業が短期間に集中するため多忙を極めた。近年では県内有数の茶どころとなり、ことに碾茶は県内2位の生産高を誇るまでになっている。〈環境〉

『新修豊田市史』関係箇所:16巻25ページ