(せいねんかい)
【近代】
近世の村落共同体内部の青年集団であった「若者組」や「若連中」に淵源を有し、明治中頃からは各地域内での青年子弟を対象とする修養活動を行うために「青年会」などの名称を使用するようになる。青年会は、初等教育・中等教育の補習・補完を担う場所、風紀向上を図る空間であった。西加茂郡梅坪村の知恩会のように有志青年で組織されたものもあれば、東加茂郡太田学校青年研究会のように村が主導となって組織したものもあった。しかし、こうした青年会も日露戦争後ともなると、各地域内で町村長や小学校長を会長に据えた体制的な組織として位置付くようになり、その呼称も「青年団」へと次第に変化していった。そこでの目的も精神修養や風紀改善を主とするものとなる。明治末期以降には、郡単位・町村単位・各地区単位でそれぞれ重層的に構成されるようになり、中央の体制により包含される青年組織へと変貌を遂げていった。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻428・656ページ
【民俗】〈社会生活〉
青年会は青年団の下部組織として、官制的な側面のほか、伝統的なムラの若い衆としての要素を併せ持っていた。若い衆としての役割にはムラの行事(祭礼など)や奉仕の活動があり、加入年齢や加入条件は若者組と同様であったところが多い。青年会としての活動には修養会や習い事、農業、養蚕業などの講習会や食糧増産事業の参加、出征兵士送迎や戦死者の家の手伝い、本団や連合会などの主催による大会(運動や弁論など)への参加などがあった。特に軍事教練などは兵隊検査・入営までの予備的訓練という面をもっていた。活動場所は公民館などがあてられたが、前林や吉原(高岡地区)には専用の青年会場があった。若者組は女子を除いて組織されていたが、碧海郡上郷町では、大正11(1922)年に女子青年の組織が発足し、昭和5(1930)年に上郷村女子青年団と改称した。戦後は青年自身による民主的な活動団体として復活し、一時は活況を呈した。退会年齢を30歳や35歳などに延長するムラもあった。しかし、昭和30年代以降、高校・大学への進学率が高まる中、地域の青年組織は衰退していった。〈社会生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻522ページ、16巻474ページ
→ 若者組