(せきがはらのたたかいごのしいき)
【近世】
天正18(1590)年、豊臣秀吉は徳川家康を関東へと移し、尾張に豊臣秀次を、三河・遠江・駿河に秀次付の与力大名を配置し、三河国刈谷領主水野忠重を伊勢国に移した。三河では、吉田に池田輝政、岡崎に田中吉政が入封した。また、この時期に高橋郡と呼ばれた地域は秀次領となった。文禄4(1595)年、秀次が謀反の疑いをかけられ自刃すると、高橋郡は田中吉政や伊勢国から刈谷へ返り咲いた水野忠重、秀吉家臣日根野弘就に分け与えられた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、徳川家康に味方した池田輝政・田中吉政は、それぞれ播磨国姫路・筑後国柳川に転封となり、味方につかなかった日根野弘就は三河での領知を失った。三河には徳川家直轄地(後に幕領)が設けられるとともに、残りは譜代大名や旗本たちへ知行所として分与された。関ヶ原合戦直後、市内は幕領および衣藩・岡崎藩・刈谷藩・作手藩・伊保藩・水野忠胤(刈谷藩主水野勝成弟。藩庁が置かれた場所は不明)の領知がほとんどを占めて旗本領は一部にすぎなかった。なお、その後旗本の増加や元禄の高直しなどにより旗本に与える知行所が必要とされるようになると、市域の幕領は旗本領に転用されてゆく。結果、寛延元(1748)年時には、市域において一村全部が幕領であった村は大野瀬村など16か村を数えるのみになる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻2ページ