世間の交流

 

(せけんのこうりゅう)

【民俗】〈環境〉

世間とは、一般には人々がくらしている生活の場をいうが、市域では自分が住む場をジゲ(地下)・ムラ(村)・マチ(町)といい、その隣接地をトナリムラ(隣村)・トナリマチ(隣町)、さらにその先をセケン(世間)ということが多かった。世間の交流で中核をなすのは、火災・風水害の救援、祭礼での呼び合い、家の建築での建て前の加勢、葬儀の会葬などで協働の役割を担い集う近隣のムラである。ここには日用品を売る店があり、日常のくらしはこの範囲で事足りた。一方、冠婚葬祭などで必要となる大きな買い物には、近くの在郷町まで出かけることになった。在郷町は遠地との交易の中継地として成立したところが多く、運送店をはじめとする商店が軒を並べ、旅館や飲食店、風呂屋、医院・診療所もあった。近在のムラからも人や産物が集まり、人の交流によって通婚圏、商圏ができた。それはほぼ現在の「地区」に相当する範囲であった。高度経済成長期以前には、患者が在(ムラ)から在郷町の医院に出かけるとなると、ところによっては1日掛かりになったので、通院のついでに親戚や知人を訪ね、買い物をしてきた。患者が医院を訪れる範囲もほぼ現在の地区の範囲であった。市域の周辺部では地区を越え、県や郡をまたいだ診療圏となるところもあったが、その場合、通婚圏や商圏も県や郡をまたいでいた。ムラと世間を結ぶものが街道や矢作川などの航路であった。道を行き交う行商や運搬業者、荷船の船乗りたちは物を運ぶだけでなく、多くの情報をもたらしてくれた。奉公に出る時には出先の縁故者が頼りになるが、その時情報の収集に行商が一役買うこともあった。下和会(上郷地区)では、やってきた行商が幾度か世間話をするうちに懇意になって、縁談を持ってきてくれることもあったという。また、反対に連谷(足助地区)では、行商をする人が連谷から奉公でやってきた人から情報を集め、そのつてでムラに行商に来るようになったこともあった。市域の平地や山地で碧南市や高浜市の海岸地に親類縁者が多かったのは、世間に明るい魚の行商や矢作川を航行する荷船の船乗り、駄賃付けの馬子たちの口利きで結婚することがあったからだともいわれている。〈環境〉

『新修豊田市史』関係箇所:17巻8・265ページ