専休寺本堂・山門・鐘楼

 

(せんきゅうじほんどう・さんもん・しょうろう)

【建築】

中立町(足助地区)。縁起によれば、当寺は古く天台宗として創立されたが、延徳年間(1489~92)に当時の住職了勇が、蓮如より本尊阿弥陀如来を直に受けて浄土真宗に転宗した。当寺は了勇を開基とし、野寺本證寺末とする。当寺の裏山には切り立ったような巨岩があり、それにちなんで立岩山と号されたという。本堂は天保3(1832)年11月の火災によって本堂と庫裏を焼失した。その後、ただちに再建されたというから、現本堂の建立年代は天保年間(1830~44)の前半とみられる。本堂(写真)は、桁行実長9間半、梁間実長9間、寄棟造、茅葺(瓦型鉄板覆)、向拝1間(実長3間)付の中型堂宇で東面する。間取りは、前よりの間口6間、奥行3間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方には1間幅の広縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半の中央の間口3間を内陣、その両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。さらに南余間の外側には間口1間半、北余間の外側に間口1間の飛檐の間を配し、堂背面に奥行1間の後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱2本と脇仏壇前柱4本を円柱とするほかは面取角柱を用いる。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、広縁前の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に渡され、余間仏壇正面に詰組(出三斗)を置き、広縁前の虹梁上には蟇股を載せる。外陣外廻りは柱間には正面中央3間に双折桟唐戸と腰高障子を入れ、正面両脇・側面柱間に板戸と腰高障子を入れる。内陣および余間正面は柱上に出三斗を載せ、内法上には内陣前に龍の高肉彫欄間、余間前に獅子付の筬欄間を入れ、柱間に双折巻障子を吊る。内陣および余間内部にも柱上に出三斗を配す。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内を小組格天井、内陣と余間を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この本堂は、江戸時代後期に再建されたものだが、改造も少なく寄棟造・茅葺の当初の形態がよく残っている。山門は、棟札によれば元文3(1738)年の再建である。この門は、中型の一間薬医門で桟瓦葺、軒は一軒疎垂木である。鐘楼は、方1間(桁行3.00m、梁間2.65m)、切妻造、桟瓦葺、一軒疎垂木で高い切石積み基壇上に建つ。鐘楼は絵様より江戸時代後期の建立と推察できる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻120ページ