(ぜんこうじにょらい)
【美術・工芸】
長野市の善光寺の本尊である阿弥陀三尊像(善光寺如来)は三国伝来の生身像(実際の仏と同様の命を宿した像)として、阿弥陀信仰を標榜する諸宗派により全国的な信仰を集めた。三尊全体を一つの舟形光背で覆う「一光三尊」と呼ばれる独特の像容をもつ善光寺如来は、彫刻や絵画として複製され全国の寺院に本尊や什物として蔵されてきた。善光寺如来の由緒と利益を記した縁起は、平安時代末期にはその原型が成立しており、現在のような善光寺如来信仰もその頃普及したと思われる。縁起の内容は3国を舞台とする。最初の舞台は東天竺の毘舎利国。月蓋長者が釈迦を軽んじたために発生した疫病を阿弥陀如来が駆逐する。月蓋長者の発願で、竜宮の霊宝・閻浮檀金に釈迦・阿弥陀両如来の霊気を浴びせて生身仏である善光寺如来が作られる。それから500年後の次の舞台は百済国。月蓋長者の百済転生に応じて善光寺如来は同国へ渡り、512年間百済国を守護する。そして舞台は日本へ移る。日本へ渡った善光寺如来の受け入れをめぐって物部氏と聖徳太子および蘇我氏は対立、ついには戦となり物部氏は滅ぼされる。その30年後、月蓋長者の生まれ変わりとして本田善光が善光寺如来を信濃へ勧請する。息子・善佐は前世の宿縁で地獄堕ちとなりかけるが、善光寺如来のとりなしで蘇生を許される。善佐は同じく地獄堕ちの運命にあった皇極天皇の蘇生を善光寺如来に嘆願する。蘇生を得た皇極天皇により善光・善佐親子は信濃・甲斐の国司に任ぜられ、善光寺を建立する。この縁起に基づいて制作されたのが善光寺如来絵伝で、鎌倉時代後期のものを現存最古本とする中で、三河では鎌倉時代後期から室町時代にかけての善光寺如来絵伝の古本が本證寺(安城市)、妙源寺(岡崎市)、満性寺(岡崎市)といずれも真宗の寺院に伝存する。市域では、善光寺如来像としては、遍照寺(鴛鴨町)に江戸時代末期のものが、版本の善光寺如来像としては高月院(松平町:写真)に弘化2(1845)年開版、遍照寺に江戸時代末期のものが伝存する。両寺はともに浄土宗鎮西派に属する。絵伝としては近代のものが3本確認される。