(せんぞうじほんどう)
【建築】
栃本町(足助地区)。寺は、康正元(1455)年、当地に代々居住の中根秀太夫という者が剃髪して蓮如の弟子となり、法名を了証と賜わり、当所に道場を建て念仏修業を行ったことに始まるとされる。その後、応仁元(1467)年には兵火のため焼失した。さらに、延宝4(1676)年当山第6代了山の時、本堂・庫裏を今の所に建立し、翌延宝5年2月に、本山より木仏本尊と寺号を御免された。ところが、宝永6(1709)年6月19日、第7代了玄の時、隣家の火災のため累焼し、五尊のほか、本堂、庫裏等残らず焼失した。現本堂は古記録によると宝永8年4月に了玄が再建したものである。本堂は、桁行実長9間、梁間実長8間、入母屋造、茅葺(瓦型鉄板覆)、向拝1間(実長3間)の堂である。間取りは、堂前半は間口7間、奥行3間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方には半間強幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央に木階5級を設ける。堂後半は中央の間口3間、奥行3間半を内陣、両脇の間口2間、奥行2間半を余間とする。その余間の外側には間口1間半の飛檐の間を設け、堂背面に後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いた後門形式を採用する。柱は脇仏壇前柱と余間仏壇前柱と来迎柱の6本が円柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、外陣外廻りの正面中央3間の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に虹梁が渡され、その上に出組斗栱を詰組に載せる。外陣外廻りの柱間には正面中央3間に板戸と腰高障子、その他柱間に腰高ガラス障子(旧板戸と障子)を入れる。内陣および余間正面は柱上に出組を載せ、内法上に龍や天女の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣および余間内部にも柱上に出組を配す。天井は、外陣と矢来内と余間を格天井、内陣は折上小組格天井、飛檐の間を棹縁天井とする。この堂を復原すると、堂後方の側背面の下屋部分はなくなり、内陣背面の脇仏壇が1 間手前に移され、余間仏壇と内陣脇仏壇の前端を揃えて一直線に並ぶ通し仏壇の形式であったと推察される。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻125ページ