(せんちょうじほんどう・さんもん・くり)
【建築】
千鳥町(石野地区)。寺は、曹洞宗、山号は護持山、本尊は釈迦如来とする。総持寺2世峨山韶碩の門下実峰良秀の嗣法の天仲良雲が奇伝と白峰の二人の弟子を従え、当地に天中の師金龍謙柔を開山として千鳥寺を創立した。一方、奇伝良瑞は後に広瀬の廣済寺を創立、白峰祥瑞は足助の香積寺を創立し、2人は輪番で千鳥寺の住職となり、多くの修行僧を育て西三河の同宗の中核寺院となる。その後、正徳年間(1711~16)以降に伽藍を整備し、現本堂(写真)は正徳4(1714)年、庫裏は正徳7年に建立され、山門は文政7(1824)年、鐘楼は明治22(1889)年の建立。境内は、前方に山門、後方に本堂を置き、本堂の東前方に庫裏、山門と庫裏の間に鐘楼を置き、本堂の西前方に昭和期まで禅堂・衆寮が建っていた。本堂は、桁裄5間、梁間5間、寄棟造、桟瓦葺、南面建ち(南北軸を東に振る)。間取りは、手前を広縁、奥を縦2列、横3室の6室からなる方丈形式とする。堂正面は、中央に木階を付して入口とし、その両脇では敷居、差鴨居を通して引違い戸を入れる。堂内は、広縁を板敷き、大間は間口3間半、奥行2間半とし、前面の中央間に差鴨居を通し、室境には敷鴨居、内法長押を通して引違い戸を入れる。大間両脇では、中央に吊束を立て竹の節欄間を入れ、上・下の間はともに10畳とし、上奥・下奥の間は8畳とし、上奥の間では東側に床の間、下奥の間では物入れを加える。内陣は、前面中央に角柱2本を立て、柱間3間に虹梁を3スパン渡し、その上に板欄間を入れ、上部を小壁とする。内陣中央後方では、来迎柱を立て、前に須弥壇、後に仏龕を出し、柱上に出組斗栱を載せる。この背面では後門を開き、両脇に脇仏壇、後方に開山堂を設ける。この本堂は、曹洞宗ながら内陣前面に丸柱(露柱)を用いず、角柱を用いた点は古風な意匠を留めている。庫裏は、桁行実長14間弱、梁間実長4間半、入母屋造、桟瓦葺、平入とする。間取りは、南妻より5間弱を土間部分、その北9間を座敷部分とする。建物全体に庇を巡らし、土間部分では、座敷境に大黒柱を立て、東西に2分する柱列を造る。土間西面では北側3間弱を玄関土間として梁組をみせ、土間東面では現在台所とする。室部分は西面では土間境より12畳、6畳、10畳、12畳半の4室を並べ、12畳・6畳では周囲に差鴨居を用い、奥2室は鴨居、内法長押を用い、その奥の12畳半では東に床の間、付書院を出す。東面は、旧土間境から15畳、6畳、8畳、7畳の4室が並ぶ。この建物は、曹洞宗伽藍に配された本格的な庫裡として貴重な遺構である。山門は、入母屋造、桟瓦葺、礎盤付・総円柱の楼門である。下層は、間口1間、奥行2間、主柱間では蹴放、楣を渡すが、中央に扉を吊らず開放している。上層は、間口3間、奥行2間とし、正面では中央間に両開き桟唐戸を吊り、その両脇には花頭窓を開け、内部の背面に十六羅漢を祀る。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻145ページ