(せんねんじほんどう)
【建築】
冷田町(足助地区)。当山は萬年山と号し、元亀2(1571)年載蓮社乗誉玉㕣を開山として創立され、かつては細川の松明院の末寺であったと伝える。現本堂の建立年代は、建物の虹梁、斗栱の絵様から判断して18世紀中期のものと考えられる。本堂は、桁行5間(実長6間)、梁間5間半(実長5間半)、入母屋造、桟瓦型鉄板葺、1間向拝付、南面建ちである。堂内は、広縁では畳敷詰として棹縁天井としており、外陣では前面を柱間3間として中央間を背違いに高く無目敷居、梁間2間の虹梁を渡し、その両脇では無目敷居、梁間2間の差鴨居を渡し、内法上の中央に束を立てて白漆喰壁とし、棹縁天井を張っている。内部は両側面では敷鴨居、内法長押を通し、引違い戸を入れ、内法上小壁としている。現在外陣の前面より一間半後方に框を左右に通し、これを境に堂内の床面を二分しており、前半が下段、後半が上段となっている。これは外陣両側面の鴨居・内法長押が横一直線に通っていることからも分かるように、後世の改造によるものである。このことは、内陣の両脇にある仏壇部分では床高が挙げられたことで、仏壇の高さがかなり低い位置となっていることからも分かる。この改修は、内陣の床高に外陣の後半部分を揃えたためであり、当初は外陣の床高が現在より7寸ほど下がり、凹形外陣は40畳の一つ空間となり、上部には一面の棹縁天井が張られていたことが分かる。脇の間は、凹型外陣の突出部と一体化され、脇仏壇については柱間に仏壇框を通し、上部に梁間2間の虹梁を渡し、上部に吊束を入れた小壁とする。内陣は、前面では柱間1間、両側面2間とし、前面では飛貫高に梁間2間の大虹梁、両側面では内法高に虹梁を2スパンに渡し、前面では中央に大瓶束を立て、両脇では菱格子欄間を入れ、柱上に頭貫(端木鼻)、台輪を廻らし、柱頂に出組斗栱を載せている。内陣の中央2間後方に来迎柱を立て、前に禅宗様須弥壇を出し、本尊仏を安置している。また、現在内陣後方には幅1間半の下屋を出し、6畳3室を加えている。この本堂は、向拝、堂前面、屋根などに後世の改造が認められるが、内陣を中心とする堂内はよく保存されており、当地方の近世浄土宗本堂の発展過程を知るうえで貴重な遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻51ページ