(ぞうきょうじほんどう・さんもん・くり)
【建築】
野口町(石野地区)。寺伝によると、蓮如が寛正から応仁(1460~69)にかけて三河教化を行い、その結果弟子如光の生地である西端(碧南市)を拠点に多くの本願寺門徒を生んだ。野寺(安城市)の本證寺は本願寺に帰依して後に三河の一拠点になった寺院であるが、本證寺を中心にこの山間部にも門徒が生れるようになった。この寺は文亀3(1503)年4月11日、願主釈哂西が本證寺の末寺道場として、本尊の下附を受けており、すでに寺号が公称されていたといわれる。その後、永禄6(1563)年の三河一向一揆で敗北した本證寺空誓が、家康から他地に追放されて菅田輪(足助地区)に隠棲していた際に、末寺であった増慶寺は近くの山中14か寺とともに空誓を扶けたことから、近世以来本證寺からは特別の扱いを受けてきたとされる。慶長(1596~1615)の初め頃の本證寺51か寺の末寺の中に野口・了専の名もみえる。本堂の建立年代は、絵様より18世紀中頃と推察される。本堂(写真)は、入母屋造、銅板葺、向拝1間(実長3間)付で東向きに建てられる。現在の本堂規模は、桁行実長10間、梁間実長9間と大型の真宗本堂である。間取りは、堂前半の間口7間、奥行3間を外陣、次奥の1間を矢来内とし、外陣の正側三方には幅1間の広縁と幅半間の擬宝珠高欄付の落縁が設けられ、正面中央に向拝と木階4級を付す。堂後半の中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を配し、その後方には奥行1間の後堂を通す。この本堂を復原すると、内陣と余間では、脇仏壇と余間仏壇の位置が、当初は半間手前の現来迎柱通りをその仏壇の前端通りとしていたことが、その通り上部に通っている虹梁や天井の見切及び両余間側面柱の痕跡が残っているので、もとの仏壇框は一直線に前面を揃えて取付けられていたことが分かる。山門は、大型の一間薬医門で、桟瓦葺、二軒本繁垂木である。建立年代は、絵様より18世紀中頃の建築と推察できる。庫裏は、桁行実長10間半、梁間実長5間半、切妻造、棧瓦葺、瓦庇付(北・南・西面)、平入で南面する。軒は一軒疎垂木。この庫裏は、復原すると土間付の整形四室型となり、当地方の大型民家の構成に近い造りになっている。なお、大棟東端の鬼瓦横に「明和二(1765)年寅正月吉日、三州棚尾村瓦屋喜兵衛」の銘がある。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻105ページ