装身具

 

(そうしんぐ)

【考古】

装身具は、一般に「装飾のために身体や衣服につける服飾付属品・工芸品」、あるいは「人間の身体に着装する装飾品」と定義されている。考古学では後者の立場から、着装部位により髪飾、耳飾、鼻飾、口飾、首飾・胸飾、腕飾(腕輪)、指飾(指輪)、腰飾、足飾(足輪)等に分けて論じられることが多い。装身具は世界的には旧石器時代から認められるが、日本列島では旧石器時代の出土例は明確ではなく、縄文時代に耳飾などが現れ、弥生・古墳時代にかけて各種の装身具が盛行した。しかし直接身体に着ける装身具は古墳時代に終焉をむかえ、以降の装身具は服飾・衣服への装飾が主体となっていく。そして西欧から流入した南蛮文化が花開いた一時期を除けば、幕末・明治時代の西欧文化流入までの長期間、女性の髪飾(櫛・笄・簪など)以外は、装身具を欠く時代が続いたと考えられている。市域出土の装身具を時代別にみてみると、まず縄文時代では石製装身具の玦状耳飾、垂飾・玉類がある。玦状耳飾は縄文時代前期に盛行したもので、旭地区牛地町大麦田遺跡など4遺跡で4点の出土があり、垂飾・玉類は下山地区栗狭間遺跡など10遺跡から11点(垂飾2・勾玉2・丸玉1・臼玉5・棒状で両端に穿孔されたもの1。写真上はその一部)の出土がある。垂飾は単体でペンダント様に使用されたとみられるが、玉類と組み合わせた装着も想定されている。土製品には耳飾・垂飾・玉類がある(写真中:市内の各遺跡出土品)。特に土製耳飾は高橋地区丸根遺跡など9遺跡から19点が出土している。栓状のものと滑車形のものがあり、栓状のものは後期の遺跡から出土する事例が多く、滑車形のものは晩期前半と考えられている。土製の垂飾・玉類は、猿投地区神郷下遺跡から晩期前半の垂飾・勾玉・丸玉・臼玉が総計6点出土している。弥生時代の装身具は、上郷地区川原遺跡の中期後葉の包含層から勾玉1・管玉7・ガラス玉1点、後期の墳丘墓周辺から勾玉2・管玉10点が、高橋地区南山畑遺跡の終末期の竪穴建物跡SB04からガラス製小玉1・同SB06から勾玉1点が出土している。続く古墳時代になると、装身具が死者への副葬品とされたために数多くの古墳からの出土例がある。その種類も耳環(金環・銀環)、勾玉・切子玉・管玉・棗玉・算盤玉・トンボ玉・丸玉・小玉等の多岐にわたる。出土状況も多様で、挙母地区の豊田大塚古墳(墳長50m前後の帆立貝式古墳、6世紀前半、耳環5・勾玉3・管玉24・棗玉10・丸玉163・小玉108点)や猿投地区の藤山1号墳(径22mの円墳、6世紀後葉、耳環3・勾玉6・切子玉5・管玉11・算盤玉1・小玉27点、写真下)のような豊富な装身具を出土した古墳がある一方、高橋地区の不動2号墳(径18.6mの円墳、6世紀後葉~7世紀、耳環4点)や挙母地区の池ノ表古墳(径20mの円墳、6世紀後葉~7世紀前半、耳環6・勾玉1点)など、耳環とわずかな玉類のみが出土した古墳もみられる。そして高橋地区山ノ神古墳(7世紀後葉、耳環4・丸玉16点)などを例外として、7世紀後葉になると副葬品の減少傾向に合わせて装身具の副葬も減少していった。また装身具は、古墳以外にも高橋地区の堂外戸遺跡の竪穴建物跡SB57(4世紀後葉~5世紀前葉、勾玉1点)・SB99(5世紀中葉、管玉1・臼玉2点)、同地区岩長遺跡竪穴建物SB216(7世紀前葉、耳環2点)、上郷地区の矢迫遺跡のSB04(7世紀前~中葉、管玉2・臼玉12点)をはじめ、挙母地区の梅坪遺跡や上郷地区の神明遺跡・本川遺跡などの集落遺跡からも出土している。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻128・348・442・448・455・459・487ページ、18巻88・675ページ、19巻88・144・248・256・306・427・560・578・650・658ページ

→ 池ノ表古墳銙帯金具ガラス玉神郷下遺跡石製模造品豊田大塚古墳藤山古墳群不動1・2号墳丸根遺跡耳飾山ノ神古墳