宗徧流 

 

(そうへんりゅう)

【近世】

山田宗徧が創始した茶道の流派の一つ。宗徧は京の長徳寺に生まれ、幼い頃から茶道を学び、18歳で表千家流の千宗旦に入門し、免許皆伝となって「四方庵」を名乗った。明暦元(1655)年、宗徧は、宗旦の推挙により三河国吉田藩主小笠原忠知に仕えることになり、その際に宗旦から「不審庵」「今日庵」の庵号使用を許可されている。宗徧は、43年間吉田藩の茶堂を務めて吉田を中心に宗徧流を広めた。元禄10(1697)年に小笠原家が転封したのを機に宗徧は隠居し、江戸に移住して茶道を広めた。三河においては、岡崎連尺町の富商太田便山が宗徧流の広がりに尽力した。宗徧の百回忌にあたる文化4(1807)年、江戸の宗徧流を継承していた水谷義閑の依頼により、宗徧の遺品調査を行った不蔵庵竜渓が岡崎の明願寺に宗徧の遺品および茶室があることを発見した。これを機に、竜渓によって岡崎において宗徧流が再興された。碧海郡花園村(高岡地区)の豪農寺田伝兵衛家の当主寺田重明は、竜渓や江戸の宗徧流家元山田宗也から許状を得ており、「自誓庵」の号を名乗った。重明は、闘病中の竜渓の最晩年期に看病人の手配や金銭的な援助を行うなど、岡崎周辺の重要な門人の一人であった。天保13(1842)年に竜渓が死去すると、岡崎連尺町の商人千賀可蛟が不蔵庵2世となり、重明は竜渓の茶道具を遠江の寺院から譲り受けている。重明は可蛟が主催する茶会に参加したり、岡崎の不蔵庵を定期的に訪れて儀式を行ったりして、宗徧流の活動を支えた。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻587ページ

→ 寺田重明