大覚寺統

 

(だいかくじとう)

【古代・中世】

鎌倉時代後期、天皇家の中で天皇・治天の座を争った2つの家流の一つ。兄の後深草天皇から正元元(1259)年に譲位された亀山天皇が、文永11(1274)年に二男の後宇多天皇に譲位し、院政を布いた。以降、これに反発する後深草上皇の家流との対抗関係がつづく。亀山-後宇多とつながるこの家流は、のちに院政を布いた後宇多院が京都郊外の大覚寺に隠棲したため、大覚寺統と呼ばれる。弘安6(1283)年、高橋荘を含む天皇家領荘園群を受け継いでいた安嘉門院が没すると、亀山院は鎌倉幕府と折衝して、これを獲得した。こののち、高橋荘の本家職は大覚寺統の後宇多院から後醍醐天皇、さらに娘の宣政門院へと継承され、鎌倉時代から建武政権期を通してこの家流を支える経済基盤の一つとなったのである。やがて建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝となったが、その子孫であるこの家流は、次第に歴史の表舞台から姿を消していった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻258ページ