(だいかんしほう)
【近世】
勘定所配下の幕府代官は、地方行政、治安維持などを任務としたが、寛延2(1749)年に赤坂代官に着任した辻源五郎は、水害等による控除地の起返しや大豆栽培、定免制の全面導入のほか、強訴・徒党の厳重取締りなど、減退傾向にある年貢量の回復策に努めた。また、天明飢饉で疲弊した農村復興を課題とした寛政改革期、赤坂代官となった辻甚太郎守貞は、適任者を名主に選任することによる村政再建や、村入用経費の可視化や負担合理化、荒地起返しや潰れ百姓の帰農、備荒備蓄に向けた郷蔵の建設などにも取り組んでおり、こうした農村再建方針は、以後の代官就任時にも再々触れられ、踏襲されていく。辻代官は、三・遠両国の幕領10か宿を一括した、広域的枠組による宿財政救済策も実施している。さらに赤坂役所は、文化6(1809)年赤坂宿類焼家作手当(3000両)、同9年水難荒地起手当(1940両)、同14年不熟石代手当(1700両)の借替金仕法など、文化から天保期にかけて総額1万5000両余の拠出金事業を展開している。寺社や在地有力者から大規模な資金調達を行った赤坂役所は、これらの資金や幕府公金をもとに「赤坂役所金」として、三河各地の村や領主に貸し付けてその財政を支えるなど、個別領主支配を補完する役割も果たしていた。なお、市域での幕府代官による荒村再建例としては、時期は下がるが、稲橋村古橋暉皃に命じて行わせた嘉永4(1851)年の桑平新田村(北設楽郡設楽町)興村仕法、万延元(1860)年の閑羅瀬村(旭地区)再建仕法がある。幕末段階ともなると、地域豪農の援助なくしては代官行政が成り立たない状況が生まれており、こうした社会的役割を担うことで、豪農は地域への影響力をさらに強めていくのである。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻507ページ