大鷲院本堂・山門

 

(だいじゅ(じゅう)いんほんどう・さんもん)

【建築】

新盛町(足助地区)。寺は、当初天台宗であったが大永年間(1521~28)に心渓桂賢が曹洞宗に改宗し、文禄2(1593)年の山崩れにより堂宇が崩壊して寺歴が断たれた。その後、慶長7(1602)年、現在の開山心翁英孚が再興し、2世香山永薫が復興に努めた。さらに、正徳5(1715)年に入寂した8世中興直峰益淳、安政7(1860)年に入寂した再中興16世大蟲雄仙により伽藍が整備された。本堂は8世中興代の元禄年間(1688~1704)に建立されたものである。山門は明治16(1883)年に完成し、正面の扁額は山岡鉄舟(1836~88)が奉納したという。本堂(写真)は、桁行6間、梁間6間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付、南面建ちの堂である。間取りは、前面に広縁を通し、奥に前後2列、横3室の方丈形式とする。現在、正面の向拝と軒に改修を行っているが、堂前面では中央柱間に虹梁を渡し、引違い戸を入れ、木階を付けて入口とし、この両脇では敷居、差鴨居を通して板戸と障子を入れ、内法上を白漆喰壁とする。堂内は、広縁に畳を敷き、大間では、間口3間半、奥行3間の21畳とし、前面で柱間中央に差鴨居を高く渡し、両脇柱間には敷鴨居、内法長押を通して開放するが、当初広縁境には引違い戸を入れた。大間の内部両脇では敷居、内法長押を通し、上・下の間では12畳とし、前列3室はいずれも蟻壁長押を廻らし、棹縁天井を張っている。上奥・下奥の間はいずれも12畳とし、棹縁天井を張っており、上奥の間では後方に床の間を設け、下奥の間では、現在背面に仏壇を造り付ける。内陣は、前面では2本の丸柱(露柱)を立て、柱間3間に中央を高く虹梁を3スパン渡し、柱頂に出組斗栱を置く。内陣中央後方では来迎柱を立て、前に禅宗様須弥壇、後に仏龕を設けて本尊仏を安置する。柱上では出組斗栱を置き、この意匠を内陣に一巡させて、格天井を張っている。内陣後方では1間弱延長し、両脇に脇仏壇を設け、中央を後門とし、背面に開山堂・位牌堂を接続させている。山門は、間口3間、奥行2間、入母屋造、本瓦葺、総丸柱とする重層門である。下層は、正面の柱間3間では梁行に腰貫、飛貫を通し、縦3列の通路をとり、主柱列に扉を付けない。上層は、間口3間、奥行2間とし、周囲に廻縁を廻らし、柱間に内法長押、頭貫、台輪を廻らし、柱頂に二手先斗栱を置き、正背面の柱間中央間には幣軸を付け、両開き桟唐戸を吊る。この門は、明治期の建ちの高い重層門であり、下層を簡略化するが、伝統的な技法を踏襲した貴重な門である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻156ページ