(だいちのくらし)
【民俗】〈環境〉
市域平地部の中央を占める台地では、集落は台地の辺縁にあり、台地の下の沖積低地にムラ人の所有する田畑がある。高橋地区や上郷地区には元は低地側に集落があったが、度重なる水害を回避するために台地上へ移住したところが多い。これを「山上がり」といった。台地をヤマといっていたことになるが、現在、市域では台地中央部の高いところをヤマ(山)というところもある。西岡(高岡地区)ではヤマは私有林になっていたが、自家消費分の燃料として、誰でも勝手にヤマに入って松の下草や枯木葉を採取することができた。ヤマにはヤマバタ(山畑)もあり、昭和20年代頃までは桑を植える家が多かった。沖積低地は肥沃な耕土に恵まれてフクジ(福地)と呼ばれていたのに対し、台地は砂礫を含む酸性土壌が多く、カンジ(乾地)と呼ばれていた。そのため、台地には衣ヶ原・論地ヶ原(挙母地区)のように、長い間、雑木山や原野として放置されてきたところが多かったが、畑地の開墾も行われてきた。台地では家のクドや風呂場から出る灰(木灰)を耕土に混ぜて土壌改良に努め、早くから木棉、桑、茶など乾地でも育つ作物の栽培に取り組んできた。18世紀後期には三河の産物として「挙母の綿」が挙げられている(『三河刪補松』)。今も盛んに栽培されているのは茶である。猿投地区、上郷地区、高岡地区などで作られる茶には煎茶と碾茶てんちゃがあり、碾茶は抹茶に碾ひく前の茶葉を指す。台地上は明治用水や枝下用水が完成するまでは灌漑用水に恵まれなかったが、水はけがよく幾筋もの河川が流れていて、気候は温暖でやや湿潤であった。この気候風土が茶の栽培に適していた。乾地でおいしい茶を作るには、良い土を作り、良い肥料を施し、木枝の手入れを怠らないことが肝要だとされてきたが、これは木棉の栽培、桑の栽培でもいえることであった。近年、市域の台地は、煎茶、碾茶ともに県内有数の生産地になっている。〈環境〉
『新修豊田市史』関係箇所:16巻5・22・25ページ、10号34ページ