大名家墓所

 

(だいみょうけぼしょ)

【考古】

江戸時代を通して、市内に居城・陣屋を構えた大名家は、伊保藩の丹羽・本多家、足助藩の本多家、挙母藩の三宅・本多・内藤家の6家である。伊保藩の丹羽家は妙仙寺(日進市)に墓所を構え、つづく本多家は菩提所として永福寺(保見町)を建立したが、短期間で遠江国相良に転封となり、結果として墓所は形成されなかった。足助藩の本多家も寺社奉行補職期間にのみ加増により大名格となっており、墓所を設けた形跡はない。挙母藩の三宅氏は霊厳寺(平芝町)を菩提所として藩主の墓所を形成したが、三河国田原(田原市)に転封された際に霊厳寺を田原に移して歴代藩主の墓も改葬したため、豊田市の霊厳寺に墓所はない。つづく本多家では、大坂で没した挙母初代忠利は近江国甲賀郡の永源寺に葬られ、挙母で亡くなった2代忠次は浄心寺(喜多町の浄久寺の誤記か)を葬地としたが、後に上記の永源寺に改葬された。本多家は3代忠央の代に遠江国相良に転封となり、挙母の地に墓所は設けられなかった。ついで挙母に入部した内藤家は、江戸の光台院(東京都港区)を歴代当主の葬地とし、挙母の洞泉寺を位牌所と定めて、「庶子」を葬る廟所・墓所を設けた。なお、明治維新後ではあるが、最後の藩主内藤文成はこの洞泉寺墓所を葬地とした。このように大名家には転封に伴う香華寺・菩提所の移転等があったため、市内に現存する大名家墓所は挙母藩内藤家のみである。そのほかに大名家ではないが、大名級の石高1万4000石を有し寺部に陣屋を構えた尾張藩渡辺家の墓所が同家の菩提寺である守綱寺および隨應院(ともに寺部町)にある。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻141ページ

→ 挙母藩内藤家墓所守綱寺渡辺家墓所隨應院渡辺家墓所