(たうえ)
【民俗】〈農業〉
田植えは稲作の農事中、最も重要なものである。昭和20年代まではどの地区でも苗田(水苗代)で苗を育てており、のちに折衷苗代、昭和40年代になって田植え機が普及すると箱苗代へと変わった。晩稲の栽培が中心だった頃は、籾播きは八十八夜前後が目安にされ、地区によっては良質の籾を選定する塩水選が普及していた。田植えの時期は、戦前は中生種や晩生種が主流であったため、早生種が全盛の現代(5月中に田植え)よりも1月ほど遅かった。二十四節気の芒種(五月節)を田植え開始の目安としたところが多く、田植えのことをセツダとも呼んでいた。「遅くともハンゲまで」といわれ、雑節の半夏生までには済ますようにしていた。田植えの方法としては、昭和40年代頃までは、各地区で正条田植えが主流であった。縦横数条の条縄を張るのが正式であるが、多くは各条のタテヅナを省略した片正条植えが行われ、ヨコヅナ3、4条分を植えては後ろに下がる後退式の植え方だった(写真:足助地区綾渡町)。昭和30年代からはスジツケ(筋付け)田植えも普及した。これはスジツケ・スジヒキと呼ばれる専用の道具を使い、田に線を引いてから植えるものである。田植え機は昭和40年代以降に急速に普及し、現在はほぼすべてが箱苗代に対応した機械植えとなっている。田植えは親戚、兄弟、近所同士で協力し合って行うものであり、このことをユイ、テマガワリと呼んだ。これは交換労働であり、金銭を払って頼むヒヨトリとは区別されていた。田植えが終わるとノヤスミ(農休み)となり、1、2日ではあったが、厳正に「働いてはいけない日」であり、数少ない骨休めとなった。農休みにはカシワモチ、ボタモチ、赤飯、アジメシなどを食べた。田植えに関する儀礼は、聞き書きで確認できる年代(太平洋戦争前~戦後頃)ではすでに希薄となっていたが、苗田の供え物、苗田の禁忌、サビラキ(田植え初め)の日どりの吉凶、サナブリ(田植え仕舞い)などが伝えられている。〈農業〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻140ページ、16巻77ページ、17巻440ページ
→ ヒヨトリ