高岡町との合併 

 

(たかおかちょうとのがっぺい)

【現代】

昭和29(1954)年4月の愛知県町村合併計画試案では高岡村は人口1万6600人を数え、適正規模とされて合併政策の対象外であった。その頃、挙母市は近隣の町村を対象に合併調査を開始し、時には全村合併を、時には分村合併を求めて活動した。しかし高岡村は合併する必然性はなく、その都度申し入れを断り、行政充実のために31年5月1日に町制をしいた。ただし挙母市に隣接する笹原、宗心洞地区住民の分村合併運動は活発であった。31年2月に笹原地区は地区代表による投票を行って分村合併の賛成を決め、挙母市長へ陳情し、その後も分町合併の請願を行ったが合併は進展しなかった。38年、トヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)が高岡町に第4工場の進出計画を進め、町は用地取得や基盤整備などで町の財政能力を上回る資金を必要とした。そして昭和39年3月1日に豊田市が上郷町を合併したこともあり、高岡の合併機運が急速に高まった。高岡町議会は10月10日に合併調査特別委員会を設置し、翌年4月30日には豊田市との全町合併を決定した。町南部に位置する駒場、中田地区は、日常生活では隣接する刈谷市との関連が強かった。39年10月30日、駒場、中田地区は合併先を問う公職選挙法に準じた住民投票を行い、駒場地区では刈谷市との合併賛成票が82票差で豊田市票を上回ったので、地区の意思とした。分町の動きに対して、豊田市と高岡町は合併の方針を崩さず、法定の合併協議会を設置し合併の手続きを進めた。そして両市町は4月30日に同時に臨時議会を招集して合併の議決を行った。高岡町議会では反対意見の陳述もなく、全員賛成で合併を可決した。一方、豊田市議会は紛糾した。23日に駒場地区住民が県、豊田市、県西三河事務所などへ陳情を行った。26日には臨時大字総会を開いて刈谷市との分町合併支持を決議し、議会当日には住民が議会玄関に集まり、合併反対を訴えた。本議会では一部の反対の立場の議員から強硬な質問や意見が出て、4時間の議論の結果、合併は可決された。豊田市は40年9月1日に高岡町を編入し、人口10万7408人、面積128㎢へと拡大した。写真は高岡町の閉庁式の模様。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻10・14・155ページ

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