高崎甚三郎  生没年未詳

 

(たかさきじんざぶろう)

【近世】

近世挙母中町の商人。旧姓は高木で、文化9(1812)年頃に高崎と改姓している。同家は、挙母藩の町御用達や、中町の百姓代などを務め、挙母藩をはじめ、殿貝津役所内藤家・本地役所松平家・千足役所松平家の蔵米や蔵麦を扱い、質屋など金融業なども営んでいた。高崎は、小出権右衛門や紙屋鈴木家といった足助商人との金融関係もあったが、しだいに借金の返済が滞るようになった。文政7(1824)年10月に、高崎は、挙母藩の蔵米切手47通を担保に紙屋鈴木家から150両を借用したが、同9年6月になると15年賦に切り替え、さらに天保9(1838)年5月には、所持する田畑を紙屋鈴木家へ譲渡し、藩からの年15両ずつの「御下金」により19年間で返済することにしている。慶応4(1868)年2月に高崎は、財政難を理由に百姓代を退役している。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻344・485ページ