(たかはしいせき)
【考古】
矢作川中流域の代表的な弥生時代後・終末期を中心とする集落遺跡。左岸の高橋町から高上・上野町にまたがる広い範囲に展開し、縄文時代中期~平安時代までの長期にわたって断続的に人が住み続けた。遺跡は、矢作川の支流市木川と加茂川に挟まれた標高45~54mの下位段丘面(越戸面)の先端近くに営まれ、集落は地形に沿って北東から南西方向に弧状に広がっている。昭和41(1966)年5月、高橋土地区画整理事業の工事中に発見され、以降、同年8月の第1次調査から平成26(2014)年の第29次調査まで宅地化される部分の発掘調査が続けられた。調査総面積は約5万3000m2に上る。調査は当初、日本考古学協会員の久永春男らの研究者を調査担当者として進められたが、昭和42年の第4次調査から昭和57年の第13次調査までが国庫補助事業で進められたこととも相まって、市教育委員会に埋蔵文化財を担当する専門職員が配置されることになり、昭和43年に埋蔵文化財担当職員として採用されたのが田端勉であった。高橋遺跡の発掘調査はこの点でも意義深い。これまでの調査で竪穴建物跡368基、掘立柱建物跡65基、方形周溝墓29基、古墳の石室1基などの遺構と夥しい量の弥生土器や土師器、須恵器、石器などの遺物が発見されている。特に弥生時代の集落は、中期中葉の小規模なムラから後・終末期の居住域と墓域とが区別される大規模な集落へと発展していった姿が明らかにされている。広い範囲にわたる遺跡は大きく北東区・中央区・南西区に分けられているが、後期~終末期に展開する北東区北側の方形周溝墓群(墓域)は北東区南側の竪穴建物群(居住域)に、また終末期の中央区の方形周溝墓群(墓域)は南西区の竪穴建物群(居住域)にそれぞれ対応していて、死者を居住域とは区別した場所に葬っていた弥生人の死生観の一端をうかがわせている。建物の中には、室内の一角を土手状に囲んで貯蔵穴を設けているものや有力者の存在をうかがわせる終末期の壁立式建物もみられる。一方で、94基もの多くの終末期の竪穴建物跡が検出された大規模集落でありながら、環濠が確認されていないことや銅鐸形土製品などの銅鐸祭祀を推測させる遺物がみられないこと、また尾張との交流を示すパレス・スタイル土器がほとんど見られないことなど、他地域との交流がやや乏しい特徴も認められる。遺跡は古墳時代に入ると衰退していくが、7世紀末には大型掘立柱建物群とそれに付随する竪穴建物群からなる新たな古代集落が成立する。掘立柱建物の中には四面廂建物13-SH36(写真上)もあり、遺物にも大型の円面硯(写真下)や「谷部」と刻書された須恵器杯、運び込まれた製塩土器などがある。矢作川対岸の梅坪遺跡と並び立つ、豪族居宅のある地域の中心的な古代集落であった。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻168・175・222・241・252・290・334・492・505ページ、2巻42・105・111・138ページ、19巻166ページ、20巻338ページ