高橋郡

 

(たかはしぐん)

【古代・中世】

織豊期にみえる三河国の郡名。高橋郡は古代の律令制以来の郡名ではなく、織豊期のみに登場する。郡域は賀茂郡の高橋荘を中心とする矢作川右岸地域を指して称したが、時期によって変化しており、必ずしも一定しておらず、詳細は不明。織田信長は、永禄4(1561)年以降三河国高橋地域に進出し、天正2(1574)年頃には高橋地域は織田領となった。高橋郡の初見は「信長公記記」首巻にみえ、永禄4年に織田信長が梅坪城・八草城、伊保などを攻撃した時にこれらの地域を高橋郡と記すが、当時から高橋郡と称したかは疑問視される。同時代史料では、天正14年頃の作成と推定される「織田信雄分限帳」に、信雄の家臣余語勝久・平松与左衛門・原田右衛門太郎の知行地として高橋郡が記載されている。天正10年、徳川家康は清須会議後信長に引き続いて尾張を領していた織田信雄に、高橋地域の返還を求めるものの受け入れられず、同地域はそのまま織田領として続いた。三河国は徳川家康の領国であるが、三河国内の織田領を示す名称として高橋郡を用いたと考えられる。そのため、高橋郡は三河国内であるにもかかわらず、「尾張国高橋郡」と記す史料も存在する。しかし、この時期の同地域の在地の史料では、「賀茂郡」「高橋庄」の呼称が従来通り記されており、高橋郡の呼称は一般民衆には浸透しておらず、領主側のみが使用したものと推察される。天正18年織田信雄は転封し尾張国は豊臣秀次の領国となるが、織田領はそのまま秀次に引き継がれ、高橋郡の呼称もそのまま用いられた。文禄4(1595)年秀次事件が起こり、尾張国は豊臣秀吉によって新たに知行宛行がなされる。その知行宛行状でも高橋郡の郡名は使用されたが、対象地域は矢作川下流右岸の旧水野氏領の刈谷地域まで広がっている。その後史料上から高橋郡の名称は消え、江戸時代には用いられなくなった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻573・596ページ

→ 織田信雄豊臣秀次