高橋祐雄(古三郎) 1822~1919

 

(たかはしすけお(こさぶろう))

【近代】

高橋は陸奥福島藩の藩校講学所師範の秀雄の子として生まれた。通称新三郎・古三郎、号は忍南。安政5(1858)年から慶応3(1867)年まで福島藩の飛び地領の碧海郡重原の陣屋代官を務めた。その後福島で藩校教授となった。戊辰戦争の朝敵処分によって福島藩は本領を福島から重原に移された。明治3(1870)年11月重原藩大属、廃藩後、5年10月碧海郡刈谷村の市原稲荷神社の祠官、7年10月には宝飯郡一宮村の国幣小社、砥鹿神社の権禰宜となり、またこの間教導職として国民教化にもあたった。その後碧海郡長市川一貫から碧海郡村誌の編さんを命じられ、15年『碧海郡地理誌』をまとめた。いったん福島へ帰っていたが、23年4月、郷社足助八幡神社の祠官に招聘され、足助に移住した。25年4月から東加茂郡誌の編さんを始め、28年7月その草稿を完成させた。この『東加茂郡誌草稿』は古往、名称、疆域、国郡、村誌、気候、地勢、旧政、沿革、道路、騒擾、患害、民事、人口、風俗、土病、宗教、学校、古墳、城址など64門からなり、地理、歴史、産業、習俗、維新後の行政など東加茂郡の事象を網羅した内容からなっている。こうした項目は近世地誌の分類方法を引き継いでいるが、「古往」の冒頭には、地球の地質年代や人類の発生など西欧の近代科学の知識を取り入れた叙述もみられる。また東加茂郡の古代に関する歴史についても数多くの文献を参照しつつ考証を行っているが、ここでも当時の著名な歴史学者、重野安繹の説を参考にするなど最新の歴史研究の成果を取り入れようとする姿勢をみせている。高橋が草稿を作成した際に収集した資料を筆記した『三河東加茂郡地誌材料』、『東加茂郡志材料』なども残されている。また、25年12月高橋は開会されたばかりの帝国議会(衆議院議長)に対して、天皇・国体への敬愛、神祇官の再興、儒学の尊重、奢侈の取締り、備荒貯蓄などに関する長文の建白書を提出している。30年4月足助を離れ、福島に帰った。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻360ページ