(たかはしのしんしょう)
【古代・中世】
中世前期、賀茂郡に存在した荘園。史料上の初見は安元2(1176)年に作成された「八条院領目録」。高橋荘とともに記載されている。八条院は鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の妹であるから、高橋荘・新荘ともに天皇家領荘園であった。ただ、その目録では、「官符を帯び」た荘園に数えられているのが高橋荘だけである。高橋荘は手続きを踏んで正式に立荘された荘園であったが、新荘はそうではなかった。11世紀後半から12世紀前半の頃、賀茂郡西部が開発されて高橋荘が成立すると、やがて荘民が増加し、公認された荘域の周辺にさらに開発地を広げていき、そのため、本来の荘園の外部に膨れだした「新荘」とされたのであろう。ただし、具体的にどの地域がその「新荘」であったのかは不明。かつてはこの「新荘」が高橋荘東隣の足助荘ではないかといわれたが、現在では否定されている。史料で「新荘」の存在を確認できるのは、延文2(1357)年までである。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻198・255ページ