武田勝頼  1546~1582

 

(たけだかつより)

【古代・中世】

戦国大名甲斐武田氏の最後の当主。信玄の四男。通称四郎。父の死後、武田氏領国を最大に広げた。市域に関わる事績として、長篠の戦に至った三河への遠征がある。元亀4(1573)年に信玄が没して以降、畿内・東海地方の政治状況は信長が優位を強め、反信長を明確にする有力政治勢力としては、本願寺勢力と武田氏のみとなっていたが、勝頼は織田信長との決戦の機会をうかがっていた。信長との一戦を岐阜で遂げることを宣し、天正2(1574)年、武田氏は東美濃の明智城主遠山氏を攻め、明智遠山氏およびその周辺を服属させた。同3年、勝頼は駿河・遠江に軍勢を侵攻させるとともに、自身出陣の先遣隊として重臣山県昌景率いる軍勢を、おそらく明智方面より三河に侵入させた。3月下旬、山県隊は足助城(足助町須沢)を包囲した。4月19日、城主鈴木重直・信重父子は降伏し、周辺の阿摺、八桑などの砦に籠っていた阿摺衆ら土豪も「自落」した。さらに山県隊は、徳川家中でにわかに台頭し岡崎城にいた大岡弥四郎の内通、謀叛蜂起をたのみ、同城を目指して南進した。しかし、大岡謀叛は事前に漏れていたため、岡崎市細川町付近で徳川軍勢の反撃を受け退却した。山県は足助城に下伊那の国衆下条信氏をおいて自身は東に移動し、おそらく三州街道、武節(武節町)経由で遅れて三河に入った勝頼本隊と合流した。岡崎城攻落作戦の頓挫を受けて勝頼は、遠征中の全軍に対し、信長との尾張ないし三河での決戦のために長篠(新城市)への結集を命じた。武田軍は長篠に集結し、信長と同盟する徳川家康に寝返っていた奥平信昌の籠る長篠城を、5月1日に包囲した。家康に次いで信長も長篠に移動し、同月21日、両軍は長篠・設楽ヶ原で戦い、武田軍は大敗を喫した。勝頼は武節城に逃れたのち、信濃を経て帰国した。武節城は同年6月25日、信長嫡男信忠を補佐して佐久間信盛が攻め取った。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻585ページ

→ 阿摺衆真弓山城(足助城)跡