武田信玄  1521~1573

 

(たけだしんげん)

【古代・中世】

戦国時代の甲斐武田氏当主。諱は晴信。甲斐武田氏は、父信虎時代に戦国大名化した。晴信は、永禄3(1560)年以前に出家して信玄と称した。甲斐に加えて信濃をほぼ領国化し、駿河・上野西部・三河・美濃・飛騨の一部を領した。市域への関わりとして、弘治2年(1556)12月から翌年3月まで武田氏配下の信濃下伊那郡の国衆下条信氏に「武節之谷」(武節町)を守らせたことがあげられる。これは甲駿同盟に沿った、賀茂郡山間部における反今川反乱への対処と考えられる。信玄自身との関わりとしては、彼の最後の戦となった元亀3(1572)年から翌年にかけての遠江・三河遠征がある。元亀3年10月に信玄は駿河より徳川家康領国遠江に侵入するが、これに先立ち別動隊を遠江に侵入させていた。遠江で合流した武田軍勢は二俣などで勝利を重ね、12月、三方ヶ原で徳川軍に大勝した。信玄は浜名湖北岸で越年し、年が明けて三河に入り、菅沼定盈が城主である徳川方の野田城(新城市)を攻め、2月に降伏させ、前後して田峯城主菅沼氏、作手城主奥平氏、長篠城主菅沼氏ら奥三河の山家三方衆ならびに美濃の岩村遠山氏らを服属させた。しかし、その頃より吐血が止まず帰陣に転じた。おそらく武節を経由して、三信国境を越え三州街道を北上したが、その途次、病没した。最期の地は駒場(長野県阿智村)とする説が一般的である。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻583ページ