山車祭り

 

(だしまつり)

【民俗】〈祭礼・芸能〉

祭礼で曳き出される祭車。一般に「ダシ(山車)」と称すが、もともとは東京での使用例「出し」が明治時代に全国共通語として国語辞典に採用され、全国に流布した結果、便宜上使われてきたものである。市域では、挙母祭りでは「大車」、足助祭りでは「鉾車」と呼んでいた。「ダシ」は祭りの時に出現する道具などの一部分を指す呼び方であったが、それが全体的な呼称へと発展して山車となったといえる。市域の祭礼で奉納される飾り馬の鞍上の造り物を「ダシ」と呼び、「標具」と表記しているが、語源的には山車と同じである。市域の山車祭りは、旧挙母城下、寺部周辺、足助などで行われている。市の中心部で10月第3土・日曜日に行われる挙母祭りは、旧挙母城下町の氏神・挙母神社祭礼であり、8輌の山車が曳行される。祭りは古くは9月18日・19日に行われ、社は明治4(1871)年まで子守大明神と称していた。祭礼の前日を試楽、翌日は本楽と呼ぶ。試楽は日が暮れてから神社境内で各町内参加者の七度参りが行われ、本楽の日に8輌の山車が境内へ宮入りする(写真)。挙母の祭りに山車が登場するようになった年代は定かでない。当初は飾車5輌(4輌とも)と笠鉾2基、獅子舞の祭りであったともいう。安永7(1778)年には現在の8輌が出揃ったとされる。この山車を舞台に子どもが歌舞伎を演じ、それを藩主や家臣も楽しんだと伝えられている。挙母祭りの山車は二層造りで、唐破風の上山屋根を左右3本の六本柱で支え、その周囲に正面を開けて高欄が囲み、下山正面にも唐破風を備え、そこへ御簾状の簾幕と注連縄を下げ、地覆前面の上は1丈ほどの平らな舞台になっている。車輪は一木4輪の外輪で、後方だけの梶棒を地覆後方の左右から連結させる。後面と左右の高欄下は水引と大幕で懸装する。この形式を挙母型とも呼んでいる。曳行は左右後方の梶方と、前方に伸ばした1本の曳き綱を捌く綱方とで行う。飯田街道沿いの在郷町として繁栄した足助では、10月第2土・日曜日の八幡宮祭礼に4輌の山車が登場する。ここの祭礼でも、古くは挙母同様、山車を舞台にして芝居が演じられた。新町には宝暦12(1762)年からの記録が残されている。足助の山車は二層造りで内輪、上山屋根は唐破風を挙母型同様6本の柱で支え、正面の中央を開け、その周囲は高欄が囲む。台輪との中間に出役棚を出し、両端に同じ高さで板を折って立て掛け、これを展開すれば山車舞台になる。梶棒は台輪から立つ柱の内部にあり前後へ突き出している。また、曳行中は出役で若者が両手に扇を持ち飛び跳ね続ける。挙母と足助の山車にみられる六本柱は、もともと屋根内を2室に分け、奥に神的空間の場を演出したものである。これは江戸時代の質素倹約に対する防衛策として、山車の神殿化を図った結果だと思われる。〈祭礼・芸能〉


『新修豊田市史』関係箇所:15巻796ページ、17巻34ページ