竪穴建物

 

(たてあなたてもの)

【考古】

地面を掘りくぼめて床面とし、上に草葺き屋根を架けた建物。日本では旧石器時代~近世まで営まれており、古代までは最も一般的な建築様式であった。用途は主に住居で、集会所、工房、倉庫などにも用いられた。建物は地面に対する床面の高さによって、竪穴建物、平地建物、高床建物に分類されるが、竪穴の深さはほとんどの場合、上面が削平されているため正確にはわからない。稲武地区大野瀬町のヒロノ遺跡では深さ60cm以上の縄文時代の竪穴建物跡が確認されている。竪穴の側面が壁に相当するので、半地下式の建物ということもできる。竪穴部分の平面形や規模、上屋の構造、付属施設等は時代や地域によって変化したが、市域の竪穴建物跡を概観してみると、まず縄文時代早期~前期前半の竪穴建物跡では竪穴部分の長径が2~4mと小形で、柱穴も小さい(写真上左:足助地区桑田和町北貝戸遺跡SB01、縄文時代早期)。平面形は楕円形、三角形、台形など不定形である。足助地区下平町の下平馬場遺跡の事例のように、柱が片側に偏る建物は風除け程度の構造や片流れの屋根であったと推測される。稲武地区大野瀬町の大安寺遺跡(前期前半)の場合は、直径2.2mの円形の竪穴の中央に柱が1本建つ円錐形の上屋が復元される。炉が屋外に営まれる例もある。前期後半になると竪穴部分が円形となり、竪穴の規模が5m前後、主柱は4~6本で、建物内に炉を備える住居が定型化した(写真上右:足助地区日陰田遺跡SB01、縄文時代中期)。竪穴建物は中期後半になると足助地区の日陰田遺跡や沢尻遺跡などで急速に増え、後期には足助地区の今朝平遺跡や藤岡地区の水汲遺跡のような建物の外に礫を配した配石遺構が現れる。弥生時代の竪穴建物については、前期のものは調査されていないが、中期には隅丸長方形のもの、終末期にかけては隅丸方形のものが増加するようになる。いずれも主柱は4本で、柱の間の長軸上に地床炉を設けるのが基本的な構造となっている。一般的な竪穴部分の規模は一辺5~6mで、付属施設として貯蔵穴や間仕切り状遺構、ベッド状遺構、排水溝などがあるが、それらはすべての竪穴建物に備っているわけではない。古墳時代前期末頃になると隅が直角に掘られる竪穴が増加し、建物構造に変化があったことが推測される。古墳時代中期の5世紀中葉には竪穴の壁にカマドを造り付けるものが現れ、後期には市域の遺跡においても一般化した(写真下:高橋地区高橋遺跡第13次調査イ区、弥生~奈良時代)。竪穴自体の基本的構造に変化はみられないが、一部の竪穴建物で規模が大型化する時期がある。弥生時代終末期と古墳時代中期および7世紀代に、1辺8~10mの大型竪穴建物がみられ、弥生時代後期には大型竪穴建物の中に壁立式建物が現れている。これは、壁を高くする上屋構造によって、建物の内部空間を拡大させるものであった。高橋地区市木町の堂外戸遺跡で発見された大型竪穴建物は、周辺の倉庫群や広場、独立棟持柱建物とともに、首長の居住空間を構成していたのではないかと推定されている。7世紀代以降になると、遺跡によって時期が異なるものの、竪穴建物よりも掘立柱建物が多くなる傾向がうかがえ、8世紀中葉には竪穴建物に小型化がみられるようになる。主要建物の様式が掘立柱建物へと移行していったのに伴い、一般的な建物であった竪穴建物は徐々に衰退していった。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻84・88・174・220・234・238・289・294・363・375ページ、2巻39・45・104・111・143・432/18巻669/19巻758ページ

→ 掘立柱建物