(たなかよしまさ)
【古代・中世】
織豊期に市域の大半を統治した大名。官途名は兵部大輔。近江国出身で、初め宮部継潤に仕え、当時継潤の養子に入った幼い豊臣秀次のもり役をしたという。後豊臣秀吉に転仕し、再び秀次に付けられた。天正13(1585)年秀次が近江国を領すると、秀吉は家臣らを秀次の与力大名として付けて近江国の各地に配するが、吉政は秀次とともに近江八幡城に入り、秀次の筆頭家老として実質的な差配を行った。同18年、織田信雄・徳川家康が転封した後に、尾張国を秀次が領すると、与力大名も三河・遠江・駿河に配された。吉政は三河国賀茂郡2万7446石・額田郡2万9975石、計約5万7400石の知行を秀吉から得て、市域の大半部分は吉政領となった。吉政は岡崎城主となるが、秀次が奥羽仕置で尾張を不在となると、秀次に代わって清須城下町の支配、尾張武士の知行や寺社の所領の安堵などを行い、留守居の役割を果たす。翌20年秀次が関白に就任すると、吉政も加増されるが、秀次ではなく秀吉から知行を得ており、筆頭家老とはいいながら与力大名の位置付けは変わらなかった。吉政は秀次家臣らをとりまとめ、清須城普請、京都の守備、尾張堤普請、伏見城普請、朝鮮出兵のための大船建造などに従事した。大船建造では賀茂郡月原(わちばら)から材木調達を命じている。市域内の地は吉政の家臣らにも分与され、文禄3(1594)年に脇坂右兵衛に東加塩村(東加塩町)等の地を宛行っている。文禄4年の秀次事件で秀次は自害、関係者らも処罰を受けるが、吉政は何ら処分を受けず、逆に秀次が切腹した7月15日に2万8358石余、翌5年には高橋郡阿弥陀堂村など1万4252石余の知行を秀吉から加増された。秀次没後は加増分を入れて西三河を中心とする10万石の地を領し、秀次与力大名から豊臣大名となった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成を捕らえるなどの戦功をあげ、家康から筑後一国を与えられ、柳川城主となる。慶長14年死去。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻607ページ