段戸山 

 

(だんどさん)

【近世】

加茂郡と設楽郡の境にある山。郡境一帯の山稜を総称して段戸山と呼んでいたと考えられる。池田照政(輝政)が御林に定めたと伝えられているが、当初はその範囲は明確ではなかった。加茂郡大多賀村と設楽郡田峯村・栗島村・折立村・筒井村との間で延宝2(1674)年に境争論が起こっており、検分の上、鳥山牛之助が郡境を定め、裁許絵図が渡された。その後も周辺村との争論の中で御林と村の山との境が確認されていく。元文4(1739)年の争論で大多賀村は加茂郡には御林はないと主張したが、大多賀村の敗訴となり、御林は加茂郡にも及んでいることが確認された。御林の管理は設楽郡田峯村が責任を負うこととなっており、この時の裁許では田峯村も叱責された。この時稲橋村・武節町村・桑原村・御所貝津村・黒田村連名で、段戸山御林との境を確認したとの書付を幕府代官へ提出している。また天明元(1781)年には中当村から田峯村に宛てて境の書付を出している。しかし山中の境はわかりにくく、その後も争論は起こっている。天保12(1841)年には幕府代官から御林の見廻りを厳重にするよう申し渡され、境を改めた証文には両郡から16か村が署名している。御林以外の部分は各村の入会山として利用されており、山荷物を扱う者も出入りしていた。また利用料を納めて秣を刈り取っていた村もあり、その範囲をめぐる争論が起こっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻114ページ、9巻164ページ