(ちくさんぎょう)
【現代】
農業部門のひとつであり、家畜や家禽を飼養し、肉、卵、乳製品を得るものである。市域では旧来より山間地域を中心に牛馬のほか、いわゆる庭先養鶏などが行われてきた。また和牛は、動力源としての役牛、肥料源としての採肥牛として重要な存在であった。平地農村では、食糧難がひと段落した昭和30(1955)年前後から商品生産農業が目指され、小規模かつ副業的な飼養農家が酪農、養豚、養鶏などを営んだ。しかし、昭和40年代になると飼養農家の淘汰が進み、一部の専業的経営農家で多頭羽化による規模拡大が行われたが、都市化が進展するなかで、いわゆる畜産公害への対応に迫られた。山間地域では、和牛は役牛、採肥牛としての役割のほか、仔取りのための生産牛としての役割も有し、肉用素牛を供給した。昭和20年代後半には、仔牛専門市場である足助家畜市場が開設されたほか、国は有畜農家創設特別措置法を制定し、無畜農家の解消を目指して牛馬や緬羊の導入に経済的援助を行った。こうした背景もあり、畜産業は商品生産農業の一翼を担うものとして期待されたが、通勤兼業化による労働力不足や飼料価格の高騰などにより、早くも昭和30年代後半から衰退が見られ始めた。それらに加え、農業の近代化により和牛から役牛と採肥牛の役割が欠落し生産牛に単純化したことは、肉用素牛の仔牛生産が衰退した要因となった。その後、昭和50年代以降を中心に和牛生産の再活性化のために経済的援助をはじめとするさまざまな取り組みが行われたが、最盛期の活気を取り戻すことはできず、この地域で唯一の足助家畜市場は平成14(2002)年に閉鎖された。養鶏では、平地農村と同様に少数の養鶏農家が多頭羽飼育を行った。なお、昭和20年代から40年代にかけて牧場が整備され、現在の愛知県立三河高原牧場(下山地区、昭和29年)、茶臼山高原牧場(豊根村、昭和38年)、段戸山牧場(稲武地区、昭和44年)が開設された。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻77・458ページ、6号90ページ、8号140ページ